性同一性障害を救った医師の物語⑩

たとえ罰せられても医師として覚悟の上。国や法律ができる前から医療は存在してるんだ」。性同一性障害の手術を約600例執刀した医師・和田耕治の知られざる物語。 日本国内で性転換(性別適合)手術がタブーの頃から自らの哲学のもと、性に悩める患者を救い続けてきた伝説の医師が今蘇る!書籍「ペニスカッター」より、本文を抜粋してお届けします。

性同一性障害を救った医師の物語⑩


前回からのあらすじ
日本での性転換手術の第一人者として奮闘する耕治。暗中模索しながら術式を開発していく。研究とし号錯誤の結果、性転換手術は順調に行われているように見えたがー。

第8章 最初の事故

昏睡

激務の中の開業は、たくさんの協力者と患者たちの声に支えられ、きわめて順調な出だしだった。順調すぎたのかもしれない。

それでも仕事中は一切気を抜かず、慎重に手術をしていました。それまでに色々と怖い体験もしている自分だから、自分の過失で事故は起こさないと確信していました。 ただ全麻中に偶発的に起こりうる脳卒中や心臓発作だけが心配でしたが、幸い美容外科は元来健康な人々を相手にしているので、あまり心配しなくてもいいだろうと考えていました。

最初の大事故に遭遇したのは、わだ形成クリニックが順調に軌道に乗り出した矢先の、一九九六年の一一月のことだった。豊胸手術後の患者が意識障害に陥るという初めての事態が発生する。 その患者は四国で活躍するニューハーフだった。開業前の一九九五年夏に耕治のもとを訪れている。当時彼が勤務していた梅田のSクリニックでのことだ。目鼻の整形と顔面骨切り縮小 手術を施し、それ以来の付き合いだった。

耕治は仕事の出張で四国に行った時、小綺麗になってショーハウスで人気者になって働いていたその患者の姿を見に行ったこともある。 次は豊胸をしたいと耕治のクリニックに来て、手術も麻酔も無事に終わった……はずだった。

実はこの日、別の患者さんの手術も予定されていたのですが、四国の患者さんが予定の飛行機に乗り遅れてしまい、それで後に予定してた患者さんを繰り上げ、四国の患者さんの豊胸と目の切開は夕方からのスタートになりました。たぶんはじめの予定通りの順序で手術が行われていたら、事故が起きることはおそらくなかったと思います。これは事故を患者さんのせいにしているのではなく、事故というものはいくつもの要因が不幸にも偶然に重なって起きることが多いということを言っているのです。

その日、手術が終わったのは夜の一〇時。麻酔を覚ましてから、耕治と助手のナースは夕食の弁当をナース控え室で食べていた。手術室から一〇mと離れていない部屋だ。耕治は目を離したとはいえ、手術室には二人のスタッフが残ってまだ朦朧としている患者をみていたし、患者には当然まだモニターが付けられていた。もう少し意識がはっきりしてから隣の安静室に皆 で移動させるつもりだった。

弁当を食べ終わる頃、手術室にいた二人のスタッフがナース控え室に戻ってきた。耕治は、 いま手術室には患者一人だけだなと気になったものの、モニターが付けられているので、異常 があればアラームが鳴るから大丈夫だろうとした。 彼は普段そういう状況なら万一の場合にそなえて、常に直接患者の傍に行って容体を自ら観察し、確認することにしていた。

ところがこの日だけは、連日の出張と激務の重なりで疲労が 極限状態だったこともあり、少しの時間なら……と腰が重くなってしまった。 しばらくして患者を安静室に移動させようと全員で手術室に戻ったところ、心肺停止状態となっていたのである。この一瞬の隙が、取り返しのつかないことを招いてしまった。

詳しい状況の説明は言い訳がましいので省きますが、実は血中酸素モニターが外れており、呼吸抑制が生じてもアラームが鳴らない状態になっていたのです。 呼吸抑制の原因はたぶん手術終了時に点滴の残りに入れた強めの鎮痛剤レペタンの副作用でしょう。点滴は空になっており、薬の効果が強く出始めた時点で呼吸抑制が生じたと思います。すぐに気道挿管し蘇生処置を開始し、心拍はすぐに復活しましたが、自発呼吸がなかなか戻らず、結局あきらめて救急センターへ搬送することになりました。 転院先の病院で数日後に自発呼吸は復活しましたが、意識レベルはあまり戻らないままでした。それでさらに治療が長引くことを考え、患者さんの故郷の四国の病院にヘリで移送転院することにしました。

それからは、耕治は毎月治療費と補償費を持って面会に行った。一年が経ち、回復状況も見えなくなってきた頃、長期の補償額(損害賠償)について裁判所で話し合うこととなった。自院の管理責任の至らなさを全面的に認めていた耕治は、裁判官の和解案に応じた。

その後

当初、まだ裁判にまで発展する前だが、耕治は患者当人のためを思い、すすんで賠償する意思表示をしていた。しかしながら、本当に本人の生活保護のために還元されているのか懸念もしつつあった。実際、患者のまわりの人々がその都度請求してきているとしか思えないこともしばしばだった。 以下は、耕治自身が裁判の答弁として語った長い記録から抜粋し、適宜まとめたものである。

術後、まもなく患者X氏の同居人のY氏から電話。手術が無事終了したかの確認だったが、耕治は起こったことを正直に説明した。 当時X氏が働いていた店を経営する会社の管理部長からも連絡が入り、「これから店の スタッフとともに、すぐに大阪に行く」と。午後、社長や管理部長に会い、事情説明を行う。手術代金六三万円の返却を言われ、応じる。 またその後、滞在先のホテルにも呼ばれ、店のスタッフ、X氏の父親だという男性にも事情説明し、陳謝。このとき親族で来ていたのは父親だけであった。

翌日、管理部長から「大阪へお見舞いに行くには費用がかかるから、ご家族に見舞金を渡したい」と言われ、五〇万円を預ける。 店や会社のスタッフは入れ替わりながら一週間ほど滞在し、それらの費用として八〇万円を、耕治は支払った。その間X氏の姉も来られ、耕治はお見舞い金として、X氏あてに五〇万円を渡す。 その後、X氏は生命の危機は逃れたものの、正常に意識が回復することはなく、一二 月二日、地元の大学病院に移送されることになった。

耕治は一二月一二日、四国にお見舞いに出向く。医療センターから出ていた治療費請求額(保険証を出していなかったため、自費のまま計算されていたもの。後に保険扱い の手続きがなされ、一〇分の一以下に減額されていると思われる)二五五万円を持参し、 母親のZさんに手渡す。

一ヶ月後の一九九七年一月、「X氏が会社に借りていたお金を代理弁済してもらいたい」と管理部長に言われ、八七万円を支払う。 そして母親のZさんに治療費・見舞金としてまた五〇万円、二月にも五〇万円を払った。 それ以降は、現在も入院している病院に転院したのを機会に、月々の治療費を耕治が病院に直接支払い、そのほかに見舞金・補償費として毎月四〇万円を支払っていくことを口頭で約束。

いくらかは回復しつつあるX氏の病態の推移を見ながら、ほぼ定常化したところで、 正式に、お金の話は法的な手続きでいたしましょうと提案した。

耕治がいつ見舞いに行っても、会えるのはお母さんとお祖母さんだけ。大阪で会ったお父さんにはその後一度も会うことも、連絡もなかった。今後、X氏はいったい、どなたが責任をもって見ていかれるのか、ほんとうにX氏のためになるようにするにはどうしたらよいのか、わからなかった。そのため、少し時間をかけて解決したいという考えも耕治にあった。

ニューハーフになったX氏は、家族には見捨てられていたとか、ご両親は別居しているとか、 離婚するとか、X氏の今後のことを考えると、不安になる話も聞こえてきた。一方、それまで 同居していたY氏の思いもある。とりあえず、今しなければならないこと、してもよいことを、 当分はできる範囲でやっていこうと耕治は考えていた。

届かない誠意

しかし、関係者たちは容赦なく耕治への追及をやめなかったー。

X氏の同居人であったY氏は当時、交通の不便な病院に、毎日のようによくお見舞いに来ていたのだが、そのうち「Xさんが車を持っているのだけども、自分に車の免許がないから、見舞いに来るのが不便だ」と言いだした。耕治はY氏が早く免許を取れるよう、免許取得にあてる分として、Y氏に見舞金として四〇万円を渡した。

四月には、また会社の方から、「X氏の代わりのニューハーフを補充するために、費用を三〇〇万円ほど負担してほしい」と言われる。さすがにもうお金も底をつき始めていた耕治は、 「いくらなんでもそこまで補償しなければならない理由が理解できないことと、今回の事故は 確かに私に最終的に責任はあると思うが、大きな手術を受けるために、大阪に朝早く出かけて行かなければならないことがわかっていたのに、朝まで働かざるをえず、疲れ果てた状態で、 手術を受けることになってしまったX氏の体調にも一因があると考えられるのだから、それには、会社も一定の責任があるのではありませんか」と反論。結局一三〇万円を補償することで、合意し、支払った。

また、家族がX氏の傷病手当を手にするために、あと一年半、会社に在籍することになった ので、本人と会社が負担する社会保険料毎月五万円余も、耕治が代わりに支払う約束もし、実 行した。X氏の保険料は、耕治が負担していく形で続き、つまり、このようにして一九九九年六月まで、家族や関係者に総額二〇〇〇万円以上を耕治は支払った。以下、引用する。

事故の責任を基本的に私は感じていましたから、そうしてきました。そのことが本当にX氏のためになることなら、今後の補償も積極的に行っていく意思は持っています。事故から二年七ヶ月がたち、これからはもうあまり回復も期待できないこともわかってき ました。Xさんには、残りの人生をできるだけ温かい環境のなかで、全うしていただきたいと願っています。 いちばん心配するのは、お金だけ、まわりの人達に取られ、Xさんは病院のベッドの上で、何もわからないまま、放ったらかしにされてしまうことです。Xさんは私にとっ ては、特別な意味をもつ大事な患者さんでしたから、ただお金だけ払って、本人のため になっていなかったら、私の気持ちとしては、責任を果たしたという実感は出てきません。 借金を抱えて開業し、一年も経たないうちに、この事故に遭い、責任を果たすためにもこれまで、必死にがんばってきました。(中略)

今後、どのように解決がなされていくかわかりませんが、私が望むことは、これから 何年、あるいは何十年と意識障害を背負ったまま、生きてゆくかもしれないXさんにと って、一番よい境遇が保証されることです。 もっと良い施設があるのでは、もっと良い治療法、介護の仕方があるのでは、と気になることはありますが、他人の私には口出しできません。私は、ただXさんにおわびを 言い、まわりの人達にお金を払う立場に立たされているだけです。だからこそ、Xさん 不在の、ただお金の額だけの解決のされ方には、気の進まない思いがありますが、損害賠償の裁判というものはそういうものでも仕方がないのでしょう。したがって、現実的な賠償であれば、引き受けるのは当然と考えています。今までも、そうやってきたつも りなので、そうするつもりです。 (X氏遺族との裁判での陳述書より)

耕治はその後も、賠償金を支払い続けることとなる。辛い経験となったが、戒めとして改めて医療に対する態度を引き締めるきっかけとなったようだ。

決して忘れることができませんから、このことがその後絶対に不注意で医療事故を二度と起こさないという私の決意を持続させてくれました。(同前)

続く。(次回は3月22日に更新)

※書籍「ペニスカッター」より、本文を抜粋。WEB掲載に際し、一部構成を変更しています。
※本文の引用文(和田耕治医師のブログ、メール文、供述記録)には今日の人権意識に照らして不適切と思われる表現が一部ありますが、 執筆時の時代背景を考慮し当時のままと致しました。(方丈社編集部)


著者プロフィール

和田耕治(わだ こうじ) 1953-2007年。性転換(性別適合)手術の第一人者で、大阪市北区の美容・形成外科「わだ形成クリニック」の院長を務めた。宮崎県延岡市出身。群馬大学医学部を卒業後、東京逓信病院、東京警察病院、大手美容クリニックを経て、1996年に大阪で開業。1997年に日本精神神経学会が「性同一性障害に関する診断と治療のガイドライン」を策定した後も、ガイドラインに束縛されることなく、患者の希望に沿い性転換(性別適合)手術を行った。その手術数は国内で600人以上。学会や社会からは異端視されたが、ジェンダーに悩む多くの人々に尽力的かつ安価に、医療手術・整形手術・性転換(性別適合)手術などを行った。2007年、自身の病院で突然死した。

深町 公美子(ふかまち くみこ) 群馬県前橋市出身。就職先の群馬大学で、学生の和田耕治と出会い結婚。現在は鍼灸師、認定エステティシャン、東洋アロマセラピスト、薬膳五味五色コーディネーター。鍼灸(東京医療専門学校)、美容(SABFA)の学校を卒業後、A-ha(アハ)治療室開業。著書に『押せば変わる! 美人のツボ100』(集英社)、『体と心にきく毎日のツボ』(集英社・セブン&アイ)、料理本『冷え冷えガールのぽかぽかレシピ』(主婦の友社。韓国・台湾でも発売)などがある。大手企業マガジンではツボやアロマの連載、女性誌、健康雑誌では美容・健康に関する特集や別冊付録を数多く手がけている。

性同一性障害の手術を約600例執刀した医師・和田耕治のノンフィクション

この連載について

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性同一性障害を救った医師の物語

和田 耕治/深町公美子

「たとえ罰せられても医師として覚悟の上。国や法律ができる前から医療は存在してるんだ」。 性同一性障害者の手術を約600例執刀した医師・和田耕治の知られざる物語。 日本国内で性転換(性別適合)手術がタブーの頃から自らの哲学のもと...もっと読む

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PagannPoetry ペニスカッター、今週分の更新です。性転換手術はまさに命がけ。手がけてきて初めての医療事故に関する抜粋記事です。医者は医療を通じて、重いものを追っているとあらためて考えさせられる。 https://t.co/ZAP0qBCKuj 7日前 replyretweetfavorite