彗星の孤独

あれが恋だったとは思わない

坂本龍一さん、大貫妙子さんらから賛辞を送られる音楽家であり、ノンフィクション等の著書も多数持つ文筆家でもある寺尾紗穂さんのエッセイ集『彗星の孤独』から珠玉のエッセイを特別公開。第3回はエッセイ「あれが恋だったとは思わない」。20の夏、母親をだましてのひとり旅のはずが、思いがけず3つ上の中国人男性の同行者を持った――。

寺尾紗穂『彗星の孤独』より「あれが恋だったとは思わない」

 20の夏から秋にかけて私は中国にいた。母親をだましてのひとり旅。けれど旅の前半、私は思いがけず同行者を持った。シャオピン、私より3つ上だった。外国人は泊まらないような、トイレ、シャワー共用の上海の安宿に何泊かしていた時、向い部屋に事務所を構える広東人のリアオさんと親しくなったが、そのリアオさんの甥がシャオピンだった。彼の妹も田舎から出てきたばかりのようでリアオさんのところに来ていたので、上海で働くシャオピンは久々に妹に会いに来たのかもしれなかった。警察学校を出たシャオピンは、今は普通のサラリーマンとして働いていたが、仕事はあまり面白くなさそうだった。シャオピンと出会った晩、私はリアオさんたちと日本のスナックのようなカラオケに出かけた。リアオさんもそうだったが、プロ顔負けの声量と歌心を持つ中国人たちに混じって、私も中国の民謡を一曲歌った。シャオピンが歌ったかどうか覚えていないが、歌は苦手だと言っていたような気もする。カラオケのあと、シャオピンが散歩をしようというので、プラタナスの街路樹の下をどこまでも歩いた。シャオピンはかなりおしゃべりで、その間私から話しかけることはなかったが、会話はほとんどとぎれることがなかった。シャオピンによれば、日本の女の子のイメージはとてもよくて、「女の子が綺麗なのは一に韓国、二に日本、最後が中国」ということだった。この時は付き合っていた女の子にふられたばかりで、彼女が忘れられないと何度も言った。「君は彼女に少し似てるよ」。

 2回くらいそう言われたのだと思う。そのまわりくどさにいくらか苛立ちながら、それを極力おさえて聞いた。「私のことが好きなの?」。それだからこんなに長いこと私と歩きつづけて思わせぶりなことを言っているのか、どうなのか、単純に知りたかったのだが、今から思うと中国語では「私のこと、好き?」も「私のことが好きなの?」も同じだったのだろうと思う。もちろん、それを言い分ける術はあるのだろうが、中国語初級レベルの当時の身には知る由もない。元来警戒心に欠け、好奇心ばかり旺盛な私は充分に迂闊だった。翌日一緒に行った外灘(バンド)で、私はなぜそういう状況になっているのかわからぬままに「永遠に愛すよ」と笑ってしまうような科白を背に聴きながら、そうか、中国語で「永遠」は「天長地久」って言うんだ、と思っていた。眼下の黄哺江(こうほこう)をはさんで目の前には東方明珠(とうほうめいしゅ)の巨大な塔がそびえていて、そういえば『上海ベイビー』の衛慧(ウェイフェイ)はあれを巨大なペニスに見立てていたな、とも思った。

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新聞、雑誌、ウェブ書評にて絶賛! 唯一無二の音楽家・文筆家による待望のエッセイ集。

彗星の孤独

寺尾 紗穂
スタンド・ブックス
2018-10-17

この連載について

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彗星の孤独

寺尾紗穂

坂本龍一、大貫妙子らから賛辞を送られる音楽家であり、ノンフィクションの著書を多数持つ文筆家でもある寺尾紗穂さんの『彗星の孤独』より厳選のエッセイを公開。遠くて遠い父、娘たちのぬくもり、過ぎ去る風景――ひとりの人間として、母として、女と...もっと読む

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consaba 寺尾紗穂「20の夏から秋にかけて私は中国にいた。母親をだましてのひとり旅。けれど旅の前半、私は思いがけず同行者を持った。シャオピン、私より3つ上だった。」 5ヶ月前 replyretweetfavorite