〈「いだてん」第5回「雨ニモマケズ」あらすじ〉
高座に上がったほろ酔いの志ん生(ビートたけし)は、古典落語「芝浜」を語ると思いきや突然オリンピックの噺(はなし)を始める。時は明治44年、オリンピックへの参加選手を決める羽田の予選会。全国から来た健脚の学生たちに刺激を受け、審査員だった三島弥彦(生田斗真)は急きょ短距離走に参戦。一方、金栗四三(中村勘九郎)は、10里およそ40キロメートルという未体験の長さのマラソンに挑む。ライバルたちとの激しいデッドヒートの先に、憧れの嘉納治五郎(役所広司)の待つゴールを目指す!(番組公式HPより)
濁点のあるなし
「生きて帰ってくれたまえ!」永井がメガホンで参加者に呼びかける傍ら、可児は白手袋でカップをさすっている。穴と穴でできたメ「ガ」ホン、穴と底でできた「カ」ップ。訓示たれるナガイ、カップなでるはカニ。永井は「カナグリ」と飽きずに濁点を繰り返し、可児は「カナクリ」と訂正する。反目しているかに見える二人だが、ゴールのあと倒れかかった四三を右から支えているのは永井で、左から水を差しだすのは可児だった。
祝勝会で酔った可児は、永井を皮肉るように、「ミチアキ」を「ドウメイ」と濁点混じりで呼ばわる。「永井ドウメイ、ロクボクにつかまれ!」。そればかりか訓示の真似までする。「生きて帰ってくれたまえ!」怒りを笑いでこらえる永井をよそに、可児は四三に渡したはずの優勝カップで勝利の美酒に酔いしれる。しかしその姿がけして憎めないのは、このカップを発注した張本人こそ可児であり、彼はかつて、失意のベッドの中にある嘉納治五郎にカップを渡しながら涙声でこう言ったからだ。「いだてんは、います!」いだてんは確かにいた。目の前にいる。カップはいだてんのものだ。しかし、カップは液体のものでもある。そこに酒を注いで何が悪い。穴は液体を注ぐためにあり、底は液体を湛えるためにある。そしてまた、液体は穴から飲まれねばならぬ。いだてんどころではない。
四三はなんとなくその宴になじめない。カップを譲り受けても、一人寄宿舎で眠れない。しかしそれをさほど孤独とも思っていない。美川のことばを借りるなら「嫌みなほど謙虚」。不思議な主人公だ。
松明をかざして治五郎と天狗たちが羽田のくらがりの中を走る美しい夜景と、今日の反省を一人ノートに書く四三とを交互に映し出すシークエンスは、ちょっと通常のドラマでは味わえない感情をかき立てる。勝利者が二手に分かれていく。宴の真ん中で喜びを爆発させる者と、宴の外で振り返る者と。それらが一つにまとまらぬ寂寥と、それらが一続きに連なる高揚とが同時にやってくる。松明が掲げられる。まだそれは聖火ではない。聖火ではないがゆえの野性が燃えている。排便よし!
また夢になるといけねえ
さて今回、車に乗った円喬が稽古していた落語『鰍沢(かじかざわ)』は、とある旅人が身延山の日蓮さんにお詣りした、その帰り道の噺。
真冬の吹雪、一面の銀世界。道に迷った旅人は、どうか神様、と南無妙法蓮華経を唱え始める。昭和39年、晩年の志ん生の録音では、もうこのまあじゃあ凍えて死んじまう、ああ助からねえかなあ、どうか助けておくんなさいという念がこもって、お題目が実に真に迫ってくる。志ん生の高い声がかすれて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…
ところが一度二度唱えて三度目の南無妙法蓮華経で、志ん生の声はすっと元に戻り、語りの冷静さを取り戻す。「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と、お題目を唱えながら歩いて行く…」商人の足取りはいつの間にか前に進んで、気づくと向こうに一軒の灯りが見える。急に真顔に、てな言い方があるが、これは真顔ならぬ真声。ぐうっと語りに入った声がすっと引いて真声になる。それを合図に、まるでお題目が吹雪を払ったように視界が開ける。夢から覚めたように迷いが晴れる。いや待て、本当に覚めたのか。むしろこっちの方が夢じゃないのか。
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