法則37 人生は お金じゃないと知る
私はやっと、お金の奴隷から解放された。
もう気の進まない仕事をする必要はない。IPO投資のときのように、新規公開株を獲得するために日々奔走する必要もない。上がり下がりする株価に一喜一憂する必要もない。これから一生、遊んでいたって暮らしていける!
しかし、そんな解放感を味わったのも束の間だった。
最初のうちは、旅行をしたり、友人を誘ってゴルフに出かけたりしていたが、みんな毎日私につきあってくれるほど暇ではない。 そのうちに、本当に何もすることがなくなってしまった。 ただ、家でゴロンと寝転がって、ボンヤリ過ごす日々……。
自分が何をしたかったのかも、これから何を目標にしたらいいのかも、すべてわからなくなっていた。
そして私は、なんと「うつ」を患ってしまったのだ。当時、ちょうどリーマン・ショックが起こったばかりで、投資に関する講演依頼が激減していたことも、心の落ち込みに拍車をかけた要因だった。
ある日、以前買っただけで「つんどく本」になっていた1冊を何気なく書棚から取り出し、ハードカバーの表紙をめくってみた。
その本のタイトルは、『マイクロソフトでは出会えなかった天職──僕はこうして社会起業家になった』。
著者のジョン・ウッド氏は、マイクロソフト社の国際部門で要職につき、バリバリ仕事をこなしていた。生きる意味を模索する中でネパールの子どもたちに出会い、人生の一大方向転換を図って社会起業家への道を歩み出すというストーリーだ。 カバーの裏には、こんな一文が書かれていた。
人生で満足させなければならない相手は自分自身だけ。自分が正しいと思うことをして、その気持ちに正直になればいい。
私はハッとした。 これまで、2浪して入った大学を中退して塾講師になったり、ぜいたく三昧の生活をしたり、親に反対されても家業の保険代理店業をアウトソーシングしたり、自分の思うとおりにやってきたじゃないか。
なのに、やっとここまで来て、私は何をグズグズしているんだろう?
今の私は、あくせく働かなくてもすむのだから、他人から見たらうらやましい立場かもしれない。でも、自分で自分を満足させられていない。
「これでは、何の意味もない! 私にだって、やりたいことがあったじゃないか」 私が「ファイナンシャル・インディペンデンス(経済的独立)」を達成してやりたかったことは、「全国を講演して回る」こと。そしてそれにまつわる「執筆をする」ことだったはず。
かつての自分自身のような「お金の落ちこぼれ」たちに、金融のノウハウを教えて回ることなのだ。
「かつての私のように借金まみれで惨めな思いをしている人を助けたい」
私は、気持ちの高まりを感じながら、ページをめくる手を進めた。すると、またこんな文が目にとまった。
考えることに時間をかけすぎず、飛び込んでみること。〈中略〉 最大のリスクは、たくさんの人が、あなたを説得して夢をあきらめさせようとすることだ。世の中には、うまくいかない理由をあげることが大好きな人が多すぎて、「応援しているよ」と励ましてくれる人が少なすぎる。一人で考える時間が長いほど、否定的な力に引き寄せられて取り込まれやすくなる。
私はまるで、自分の心の中を見透かされているような気がした。 自分の天職に気づいていながらも一歩踏み出せないのは、周囲から聞こえてくる次のような声に惑わされていたからだ。
「学校では教えてくれないお金の授業。そんなことをやって何の意味があるの?」
「人なんて集まらないよ」
たしかに、誰も私の話になんて、耳を貸さないかもしれない。
もしかすると、広い会場の中に2〜3名のお客さましかいないかもしれない。 しかし、恐れることはない。 私はすでに、「ファイナンシャル・インディペンデンス(経済的独立)」を達成している。
つまり、お金を稼ぐために講演を催すのではなく、本当に話したいことを、本当に聞いてくれる人にだけ話す──。
そのためなら、無償だってかまわない。
私はすでに、自腹を切って全国を飛び回る覚悟ができていた。
たったひとりでも、私の話に耳を傾けてくれるお客さまがいる限り、どこへでも行こうと思った。
「やっとの思いで経済的独立を勝ち取ったんだ。この状況をムダにしてはいけない」
私はどんなに小さな講演でも、声をかけてくれる人がいれば必ず出向いた。また自分のほうから、「講演をさせてください」とお願いすることもあった。
もちろん「無償で」だ。 案ずるより産むが易し、とはよく言ったもので、実際にあちこち講演に回ってみると、「人が集まらないのではないか」といった心配は杞憂に終わり、少しずつお客さまも増え、評判も高まっていった。
ポイント:お金のことを考えなくなってからが人生
おわりに ウォーレン・バフェットが教えてくれたこと
現在、私は「28 歳貯金ゼロ」時代に思い描いていたように、全国を講演して回り つつ執筆を行なう、という生活を続けている。