歴史は、私に何をさせようというのか

【第13回】2019年から1989年にタイムスリップしたトリコ。この時代で生きていくため、偽造免許証を作ろうと、弁護士から聞いた中国人と下北沢で待ち合わせた。劉朝偉と名乗る男は、100万円で手配するという。だがそんなに金がないことを打ち明けると、「女は売るものがある」と言った。歴史は、私に何をさせようというのか――

13 下北沢・木旺館

 天気のいい休日だったが、心は浮き立つどころか、不安で騒いでいた。そのせいか、間違って下北沢駅の北口改札から出てしまい、開かずの踏み切りに捕まってしまった。極彩色の色どりで、次々と電車が駆け抜けて行く。思い出が風に巻き込まれていくようだった。この街の踏み切り問題が解消されるのは、四半世紀も先のことだ。

 南口商店街を真っ直ぐ行く。ダンキンドーナツが目に飛び込んでくる。スリッツに変わる前のクラブ、ZOOがある。ここで初めて曽我部恵一の弾き語りライブを見た。感傷に浸ってもいられず、いっそ逃げ出したい思いを堪えて、奥の五叉路まで突き進んだ。

 左に折れて茶沢通りとぶつかる角のお店、木旺館に入る。この店の存在を失念していた自分を恥じた。懐かしい~と大きな声で叫びたかったが懸命に堪える。この時代に来てから、私は確実に辛抱強くなった。

 ビーズのアクセサリー、セルロイド人形、メイド・イン・USAのカード、少女趣味まる出しのレース生地……ところ狭しとアンティーク雑貨が置いてある。ここでいくつのコップやお皿を買い揃えただろう。奥に店主のおばちゃんが見える。このお店のセンスの良さと、小物が堆く積まれていても、不思議と清潔感を保っていたのは、みんなこの人のおかげだった。

 運良くテーブル席が空いていた。手作りのイスを引く。安定のガタつき加減!

 スイートポテトと冷たいミルクを注文した。腹は減っていなかったが、待ち合わせの相手に舐められたくなかった。ビビっていると思われたくなかったのだ。

 約束した時間より五分遅れて男が入ってきた。店内をもの珍しそうに見渡し、私に目をとめると近づいてきた。

「あなたが、トリコさん?」

 私は頷く。彼は微笑みつつ、「こんなとこ初めて入ったよ」と唇を尖らせた。偽造免許証を作ってくれるという中国人だった。探偵から連絡先を聞いていたのに、この日まで延び延びになっていたのは、お金を貯めていたのと、私の決心が固まらないことにあった。あの夜、やっと電話をかけることができた。

「ワタシ、劉朝偉です。劉と呼んで下さい」

 流暢な日本語だった。見た目も日本の若者と変わらない。電話のときにも感じたが、大学生と言っても通じるだろう。オールバックにした長い髪を後ろに縛り、女にモテそうな顔をしていた。渡辺探偵事務所の沢崎によれば、東京の真ん中から左半分の裏社会で、この男の顔を知らない者はいないという。そんな風には見えない。

 まずまずの第一印象を抱いたのも束の間、劉は私に断らず、真横に座った。ガサツなイスの引き方だった。やっぱりこいつは中国人だなと思った。

「ここで話すのですか? 別にいいけど」

 距離が近い。薄笑いが怖かったが、表情に出すわけにはいかなかった。

「まあ、そう硬くならずに」

 私は気づかず結んでいた唇を解いた。

「免許証、作れます。一応、トリコさんの年齢を聞いてもいいですか。歳が近い人を探しておきます」

 実在する人物を基に偽造免許証が作られると聞いたことがある。その人が生きているのか死んでいるのか、もちろんわからない。必要以上に首を突っ込まないほうがいい。

 私は迷わず、ギリギリ三十代の年齢を伝えた。劉は、本当ですか? と訊き返してこなかった。少しホッとしたが、依頼者の女性がサバを読むことに慣れているのかもしれない。

「費用ですが……一本です。百万。用意できますか」

 劉は指を一本立てた。アンドリュー・ラウの香港映画のいちシーンのようだと思った。

 彼の後ろを女子中学生が通る。無邪気な声でデッドストックのボタンに歓声を上げていた。私もずいぶん買ったはずだが、どこにいったのだろう。

「お金は先にいただきます。来週、免許証渡します」

「いまはまだ半分しか用意できません。それに、お金を渡してあなたが逃げたら困ります」

 劉はわずかだが、不服の表情を見せた。

「ワタシは生まれてこの方、人を裏切ったことがない。先に裏切られた場合を除きますが」

 手振りを交えて話す。このときも笑顔を忘れなかった。

「不安なら他を当たればいい。それにトリコさん、いまお金はいくらある?」

 私は正直に伝えた。間ができたので、スイートポテトにフォークを刺す。劉は軽く溜め息を漏らした後、気を取り直したように、私の目を見た。

「女は売るものがある」

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