3月11日夜。経堂の酒場に石巻のサバ缶
2011年3月11日の東京は、穏やかな青空が広がっていた。少し肌寒さが残るものの、春の訪れは心を開放的にする。休み前の金曜でもあり、ツイッターの画面は、飲み会や花見の話題で楽しげだった。
その日は、私も朝からウキウキしていた。理由は、「さばのゆ」に宮城県石巻市から美味しいサバ缶がたくさん届くからだった。
「さばのゆ」は、東京の世田谷、小田急線・経堂駅前にあるイベント酒場。テレビ、ラジオ、出版などでフリーのライター業を営む私が、落語やライブ、様々なイベントを楽しみながら酒を飲める店として、2009年6月にオープンした空間だ。
「さばのゆさーん! 荷物ですよー!」
明るい声が響いたので店のドアを開けると、宅急便のおにいさんが段ボール箱6ケースを台車に積んで前にいた。
「いつものサバ缶ですね!」
箱を開けると「金華さば水煮」と書かれた紙巻きラベルの缶詰が詰まっていた。
それは、木の屋石巻水産(以下、木の屋)という社員70名程度の小さな会社のサバ缶だ。三陸・石巻漁港水揚げのブランドサバとして名高い、脂ノリ抜群の金華サバを、港に揚がってすぐの、刺身でも食べられる鮮度のまま手で詰めて作られた物。一切添加物を使わず、旨味がたっぷりで、臭みもなく、実に美味しいサバ缶だった。
金華サバの缶詰が運ばれて来たのには、理由があった。
実は私は、2000年から経堂エリアの個人店を応援する活動「経堂系ドットコム」を運営し、ネットでの情報発信やイベントなどのボランティアをしていた。増税や売り上げの低下に悩む飲食店が多く、2007年、サバ缶による街おこしをスタート。ユニークな事例としてメディアにも取り上げられ、リーマンショック後の2009年には、サバ缶メニューを提供する店が十数店舗に。経堂は、電車に乗ってサバ缶料理を食べに訪れる人もいる「サバ缶の街」となっていたのだ。
新鮮なサバの切り身を缶に詰める従業員たちは、手に持った感覚で正確なグラム数がわかる職人揃い。鯨大和煮に2グラムの生姜を入れ続ける達人も。
ちなみに「さばのゆ」の「さば」は、サバ缶からきている。「ゆ」は、江戸の昔から地域の交流の場だった銭湯の「湯」を意識したもので、美味しいサバ缶を食べながら、集まった人が交流する店でもある。
全国のサバ缶と縁が生まれたが、2010年4月に、缶詰博士としてテレビやイベントの出演も多い黒川勇人さんの紹介で出会った木の屋のサバ缶が、特に味が良かった。
「このサバ缶が浸透すれば、さらに売り上げが伸びる店が増えるはずだ」
そう考えた私は、木の屋のサバ缶をカバンに忍ばせ飲み歩き、いろんな店のオーナーに食べてもらった。すると、メニューに取り入れる店が増えてきた。
焼きとんの「きはち」は、水煮缶の野菜和えにピリ辛味噌を添えた絶品おツマミ。ラーメンの「まことや」は、水煮を炙りチャーシュー代わりにするサバ缶ラーメン。カレーの「ガラムマサラ」は、レッドオニオンやオクラなどと水煮のスパイシー炒め。木の屋のサバ缶メニューは、いろんな店で人気を集め、売り上げアップに貢献した。
さらに木の屋と経堂系ドットコムのコラボも進み、2011年3月には、サバの日(3月8日)の2日前から、経堂の街ぐるみでイベントをスタートさせていた。
イベント名は「さば缶・縁景展」。サバをモチーフにした円形のアート作品の展示を15店舗で行い、最終日の3月27日に木の屋の木村長努社長を招き、表彰式とパーティを開催する予定だった。
この日届いたサバ缶は合計144缶あり、まだ味を知らない店に試食してもらうためのサンプルだった。私は、木の屋の営業部、鈴木誠さんに電話をした。
「6ケース、ありがとうございました! 木の屋メニューのお店、じわじわ増えそうな気がします!」
「そうなると、うちも缶詰屋冥利に尽きます。まずは、商品開発部の松友と3月17日に経堂に伺いますので!」
恰幅のいい鈴木さんは、とにかく食べるのが好き。いつも明るく、ユーモアを忘れない名物営業部員。松友倫人さんは、東京海洋大学の大学院出身、知性派のスマートなイケメン。話していると、経堂と石巻がタッグを組む実感が湧き嬉しかった。
そして、今夜もサバ缶を配り歩こうと思いつつ、午後になり、本業の映像制作の仕事の打ち合わせで、コクヨの東京品川オフィスに向かったのだった。
打ち合わせが午後2時半過ぎに終わると、急いで経堂に戻ろうと早足で品川駅に向かい、山手線に乗る。大崎駅に着く直前に減速した電車がゆっくりとホームに差しかかった時、横から突き押されるように大きく揺れた。トラックでも追突したような衝撃だった。揺れは逆からも来て、緊急停車した車体が左右に揺さぶられた。地震発生のアナウンスが流れ、ついに関東大震災が来たかと思った。時刻は午後2時46分。
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