世の中の母親信仰にはぞっとするものがある。

【第7回】
豪と明人の関係は深まっていった。保育園で出会っても偶然を装う。
もちろん、LINEは読んだ端から消去。
明人はかつて同僚だった女性建築家、矢須子と食事をし、「なんかいいことあったでしょ」と
見抜かれる。 
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 スマホのアラームに、明人はパソコンから顔を上げる。光を迎えに行く時間だ。いつも「ようやくノッてきた」というところで時間が来てしまう。明人はあきらめてパソコンの電源を切り、光の夜ご飯の支度に取りかかる。支度と言っても、たいしたものではない。冷凍したご飯をレンジで温めて、ふりかけをまぶして味付け海苔で巻く。おかずはレトルトのミートボール。完全に手抜きだが「国産で無添加」を免罪符にしている。それをやはりレンジで温めた冷凍ほうれん草といっしょにソースに絡める。これで一丁あがり。帰宅してテーブルにご飯がないと、光の機嫌はすこぶる悪い。だから家を出る前に夕飯を作っておく。家から保育園まで三分とかからないため、行って戻ってきても料理が冷めない。

 つっかけで保育園に着く。預かってもらえるギリギリの時間である十八時には、残っている子どもたちの人数も少ない。たいていはひとつの教室に集められて、三、四人の保育士がまとめて面倒を見ている。

「お疲れ様です」

 明人は保育士に挨拶する。子どもたちの群れから離れたところにいた光が、父親の姿を見かけて駆け寄ってくる。

「ママ! ママ!」

 光は明人のことをそう呼ぶ。美砂に対しても同じだ。何度も「パパって言ってみて」と言い聞かせるのだが、望み通りに光が発したことはない。

 光は言葉を覚えるのが遅い。二歳半にして、数えられるほどの単語しか出てこない。目下、明人と美砂のいちばんの悩みだ。

 こちらの言っていることはわかる。耳もよく聞こえている。アニメのアンパンマンを観ながら、ばいきんまんがドジを踏むシーンにけらけら笑っている。しかし光は「アンパンマン」としか喋れない。「ばいきんまん、でしょ?」といくら言っても、親から目線を逸らそうとする。本人も思うように話せないことがつらそうに見える。

 光と同じクラスの二歳児の子たちが「らいとくんのパパ!」と言いながら、明人のところにやってきた。明人は顔なじみの子どもたちに囲まれる。

「なにがかいてあるの?」

 明人の胸のあたりを指さして訊ねる。明人は腰を下げて、子どもたちと同じ目線にする。

「これはね、ガウディっておじさんが建てた、サグラダ寺院。スペインにある」

「すぺいん?」

「日本から遠く離れた外国だね。暑いよお」

 二十年以上前に訪れたバルセロナで買い求めた、観光客向けの安いTシャツを明人はいまだに手放さずにいた。あこがれの建造物を目の当たりにしたときの感動は今も彼の中にある。ガウディはサグラダ寺院を未完のままこの世を去ったが、巨匠が大いなる宿題として人類に託したのだと思っている。

「すぺいんしってる!」

「すごくかっこいい!」

「おっきい? どれくらいおおきい?」

 子どもたちが矢継ぎ早に話しかけてくる。どの子も単語ではなく、文章にして受け答えができる。焦るなというほうが無理だった。光は明人の膝の上で、つまらなそうな顔をしている。光もおしゃべりに参加できたら、相手が子どもだろうと、明人はサグラダ寺院について熱く語っていただろう。わが子の拗ねた顔に、現実に引き戻される。

 教室のドアが開く。二十代半ばくらいに見える若い母親だった。保育士が呼び声を上げる。

「アリちゃーん、ママがお迎えに来たよー」

 女の子のグループの輪を抜け出して、亜梨がトコトコと床を鳴らして現れる。誰にも気づかれないよう、明人はまなみを凝視した。

 まず、顔が小さかった。ナチュラルメイクと長い髪を後ろで上品に纏めることで、十人並みの顔を特徴づけることに成功していた。衣服はブランドものだろう、コンサバ系のカットソーのスカートでウエストの細さが目立ち、スタイルの良さを引き立たせている。さしずめ愛読している雑誌は「VERY」に違いない。豪の家は保育園の目と鼻の先。顔を合わせるのは保育士と保護者だけ。それでもこの身なりを毎日やっているのか。隙を見せようとしない高姿勢に、女の凄みを感じた。

「どんな奥さん?」と豪に訊ねたことがある。自分でも口調が女っぽいと思った。

「普通だよ」と豪は明人の目を見ずに答えた。

 確かに「普通」だった。「私はあなたたちとは違うのよ」と、他者へのバリアの張り方が、「凡人」ならではのものだった。

 ライバルとは思わない。むしろひとりの男を共有する連帯感があった。それはもちろん「自分のほうが上」という、根拠はないが絶対的な自信からくるものだった。

 明人は光を抱っこすると、まなみと入れ違いに、教室から去ろうとした。そのときだった。

「光くんのパパですか?」

 まなみが声をかけてきた。明人は振り返る。

「はい?」

 あなた誰ですか? と、明人は顔に書いてみた。

「私、有馬の家内です。夫と飲まれたそうですね」

 先ほどまでとは打って変わった、作為の感じられない微笑みだった。明人はいまようやく気付いたような表情を演出した。

「ああ—どおも—」

「有馬の家内です。主人がお世話になっております」

 まなみが丁寧に頭を下げてから、顔を上げる。つっけんどんだった眦が優しげに下がっている。だまされるものかと明人は思う。

「主人は仕事仕事の毎日で、私なんかがわからないほどストレスが大きいと思うんです。でも先日、〝光くんのパパと飲んできた〟って、久し振りに嬉しそうな顔をして帰ってきて。あの人いつの間にパパ友なんてできたんだろうって驚いていたんです」

 明人は意識して一拍遅らせる。豪と夜に酒を飲んだのは二回しかない。一度目は別れ際に怒らせたとき。二度目は初めて結ばれた日。おそらく後者のほうだろう。

「いやーこちらこそ。有馬さんにはタイヘンお世話になっています。あー、こんなに綺麗な奥様だとは存じませんでした」

 まなみは笑う。本気にするなと明人は思う。

「これからも仲良くしてあげて下さい。あの人、友達がいないみたいですし」

「あはは。それは俺も同じです。今後ともよろしくお願いします」

 頭を下げて教室から去る。明人は下駄箱で光の靴を履かせて、手を繫ぎながら帰る。

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東京パパ友ラブストーリー

樋口毅宏

有馬豪は、渋谷にあるファンドマネージメント会社のCEO。30歳のイケメンであり、イクメンだ。 娘の亜梨が通う保育園で、鐘山明人というおっさん建築家と知り合い、飲みに誘われる。 これが、それぞれの妻を巻き込んでの地獄の幕開...もっと読む

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