誘ったのは、俺のほうからだった。
はじめの一歩を踏み出すには勇気がいった。信じてもらえるかどうかわからないけど、それまで同性とは経験がなかったから。
怖かったのかもしれない。自分の別の面に、ずっと目をそらし続けてきた。ウソをついているという自覚さえなかった。それを認めてしまえば、ずるずると蟻地獄のように深みに嵌まって戻れなくなるに違いないと、なんとなくわかっていた。
でもきみとなら、地獄も悪くなかった。手遅れになった後になって、開き直るつもりはないけど。
妻と子どもを裏切る罪悪感などなかった。「奥さんへの当てつけだったんだろ」って、きみは怒ったとき言ったことがあった。確かに、俺は育児と家事で、思うように仕事ができなかったけど、違うと思う。
男を取り戻したかった? それはあったかもしれない。男は去勢されたまま生きていけない。同じ男だから、わかってくれるよな。
誰でもよかったわけじゃない。きみが可愛かったから、「いいな」って思ったから、自然とそうなった。ほんとだよ。それだけは誤解しないでほしい。あー照れるなあ。
前にも似たようなことを話したけど、「名は体を表す」ってあれはウソ。親が子に名を付けてもそれは願望に過ぎない。俺を見てわかっただろう? いつだってへらへら笑ってやり過ごしてきた。自分の弱さを知っていたから。そうしないと生きてこられなかった。付き合っていくうち、「思っていたのと違う」って、失望させたと思う。
そうだね、「男らしくしろ」と、呪いをかけられてきた。積もり積もったものが出ちゃったのかな。
生まれ変わったら? それでも男がいいな。男はラク。少なくともこの国では、男ってだけで既得権益だから。
まだ懲りてないのかもしれない。男に生まれて、男に縛られて。それであれだけ大変な目に遭ったのに。
終わらない夏などないのに、何を俺たちは無邪気に信じていたのだろう。
豪は多忙な日々を過ごしていた。通常業務の他に、社員全員に与えていた月次の定例課題──トレード案に、営業部の部長と商品企画サービス部の部長と目を通した。目ぼしい案には作成者を呼び、真意を確認し、社内のトレーダーに発注する。今回採用したトレード案は計理部に在籍する女性社員だった。以前よりファンドマネージメント部への異動を希望していた。センスがあると豪は思った。
転職の多いこの業界で、他社に引き抜かれるより自社で大きく生かしたほうが良さそうだと判断した。ランチは海外在住のクオンツアナリストとフェイスタイムで話しながら。十四時には急な来客があり、時間を取られた。その後は海外市場のチェックと社内ミーティングに充てた。
少し時間が空いたので瀬島を会社から歩いて数分のスタバに誘う。そこでも仕事の話になる。
「きょう中にできそうか」
「頑張ります」
各ファンドマネージャーが顧客向けに提出する運用状況のレポートを、誤りや不備がないか瀬島に調べさせる。実践的な仕事が若手には必要だ。
会社に戻り、投資候補の業績データを目で追う。スマホが鳴る。画面に銀髪の老人が映る。シンガポールに住む父、尊徳だった。忙殺されている豪に、おかまいなしにフェイスタイムをかけてくる。
「いまいいか」
「大丈夫です」
「五分でいい」
五分で済んだ例しはないが、豪は取り掛かっていた仕事から手を放した。
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