ローマで何を考えた?
例えばある人が、ローマへ(ミラノでもいいが)旅行に行ったとする。
それを題材にして、「そこからさらに考える」を考えてみる。
他人のローマの休日に口をはさむ野暮を承知で、「ローマのリストランテでパスタを食べたけど、それほどでもなかった」という「経験」は「旅の思い出」として残るかもしれないが、それだけでは「脳内データベース」に蓄積されて、のちのち役に立つ かどうかは怪しい。 ならば、「そこからさらに考える」をやってみればどうなるか?
「ローマのリストランテでパスタを食べた → それほどでもないな、と思った」をきっかけに、
→ 地元じゃ有名なリストランテなのになぜだろう?
→ 地元の人の舌に合わ せてあるのかも
→ 日本でも北と東と西と南じゃ味の好みが違う
→ そういう意味ではま さしく地元の店だ
→ 『本場』にはうまい/まずいの評価は相応しくないのかもしれない
というところにまで考えを及ばせる。
「実際の経験をきっかけとしてさらに考える」ということ、これが「脳内経験」であ る。
いわゆる「経験」はその現場のことだが、これは「脳が考えた」という「経験」 である。 その「ローマのリストランテ」を誰かに話すという場面を「脳内経験のアリ/ナシ」で想像してみると、この「そこからさらに考える」の意義をわかってもらえると 思う。
実例Aパターン 「脳内経験」ナシ
「ローマの有名なリストランテで食事したんだけど、なんかピンとこなかったんだよね。評判ってそういうものかもね」
実例Bパターン 「脳内経験」アリ
「ローマの有名なリストランテで食事したんだけど、なんかピンとこなかったんだよね。これは想像なんだけど、日本人の舌に合わせていないからじゃないかな。そうい えば外国人観光客もほとんどいなかったような。日本でも地域が違えば味の好みも違 う。『本場の味』や『地元の名物』って、よそ者がうまいまずいをとやかくいうもの ではなくって、食文化を楽しむものなんじゃないかと思ったんだ」
まったく同じイタリア旅行をしてきたとしても、「脳内データベース」に蓄えられた「経験」の量が違うのである。Aのケースは蓄えられているものが貧弱だから、会話の中でアウトプットできることもそれなりのものにしかならない。 得られた経験量の差は、情報の質や量と掘り下げ方や広がりの差となって表れ、そ の結果、説得や興味喚起の力が違ってくるのがわかる。
(「気の利いたことが言えるようになる」って約束しましたよね)
もし仮に、そのリストランテの料理が感動的なくらいうまかったとしても、上記の構図は同じだ。「そこからさらに考える」ことをやめてしまえば、サルティンボッカがうまかろうがまずかろうが、人にできる話もその地点で終わる。
「ローマのリストランテ」ならまだしも、ぼくらの日常のほぼすべては、「見ず知らずのサラリーマンのスーツ」のような、無意識のうちにやり過ごしてしまう「とるに 足らないこと」だ。つまり、ぼくらは日常のせっかくの「経験」を、記憶にとどめよ うとすることなくうっちゃってしまっていることになる。 「取るに足らないこと」を、いちいちくどくど考えるのは、時間の無駄に思えるかも しれない。
でも「脳内データベース」に「経験」を蓄積するという観点からは、そこで脳を働かせないのは実にもったいない。「取るに足らないこと」をくどくど考える ことこそクリエーティブで、それを怠る方がむしろ時間の無駄だと思う。
日常脳内経験
もしその考えに賛同してもらえるならば、ぼくはここから「そこからさらに考え る」という日常を提案したい。 
 「脳内経験」にはいくつもの「いいこと」がある。
「脳内データベース」を豊かに拡充する。しかも効率よく。脳を動かすトレーニング になる。考えるクセがつく。考えることは意外と楽しい。ローマなんか行かなくても、いつでもどこでも誰にでもできる。
具体例を示してみる。しつこいようだが、また食べ物のこと。(その方が楽しいかなと思って)
ある店でラーメンを食べた。→「まあまあおいしいな」と思った。 という「経験」をした。 そこで考えるのをやめてしまえば、「まあまあおいしい」程度なので記憶にとどめ られ「脳内データベース」に蓄積される可能性は低いかもしれない。ではその「経験」をきっかけに「そこからさらに考える」という「脳内経験」を実践してみたらどうなるだろう?
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