電気サーカス 第99回

真赤とのいざこざで茫然自失になった“僕”は、家族や友人を巻き込む騒ぎを起こす。一時は自殺を試みるほど落ち込んだが、以前の職場に復帰するほど回復。が、皆の優しさに耐えきれず、一ヵ月で退職。自分の意志で入院生活を送ることを決意。

 一晩悩んだ結果、僕は病院を退院し、その企業に勤めることに決めた。
 精神科病院は確かに良い場所だけれども、いつでもまた入ることが出来る。しかし就職というものはそうはいかない。時間が経てば経つほど職歴の空白期間が伸び、難しくなるだろう。それならば、今はとにかく働いて、自分の入院費を作るべきではないだろうか。
 そこで僕は、その連絡を受けた翌日には医者に申し出た。もとより僕は自分から希望しての入院であるから、出たいと言えば即日退院となる。このあたりの事情が他の患者と違うのは、若干申し訳ないところではあった。
 そして僕は見事に社会に復帰した。新しく働くことになったのは、新宿にある小さな編集プロダクションであった。
 考えられないほどの低賃金。作っているのはポルノ雑誌。人員の不足を補うために何でもさせられる。という過酷な環境ではあったけれど、気づかぬうちに僕はかなり回復していた。向精神薬に頼る必要もなかったし、妙な熱が出ることもなかった。何かきっかけが思い当たるわけでもない。時間が静かに解決していたのだろう。
 それでもはじめのころは病院での生活ばかり懐かしんでいたが、やがてそのことも忘れた。編集プロダクションでの仕事自体はけして楽しいものではなかったが、とにかく忙しく、余計なことを考えている暇がなかったのである。曲がりなりにも出版に携わっているのだという実感もあった。
 そしてその会社での経験は、僕に労働の習慣を取り戻してくれた。一年ほどでその会社が倒産し、なくなってしまった後も、僕はすぐに次の仕事を探し、そして求職中もつなぎのためにアルバイトなどをした。ビルや工事現場の仕事、交通量の調査、ティッシュ配り。何もしない期間を作って、前のように堕落してしまいたくはないと、とにかく手を埋めた。そうした建設的な行動が出来る自分が不思議だった。
 すると、昔はけして褒めてくれなかった母親なども頻繁に褒める言葉を口にするようになった。その言葉を少年時代に欲しかったと思ったが、悪い気持ちはしない。母親は朝早く起きて弁当なども持たせてくれる。母親の作った弁当を食うなんていつ以来だったろう? 冷えて少し固まった白米を、工事現場で頬張った。そうして、ぼろぼろと涙をこぼしたりもした。
『電気サーカス』は、就職をした初めの頃こそ多少更新もしていたものの、いつしか更新が途絶え、そのうち存在そのものを忘れてしまった。そして後になって思い出し、サーバーに残っていた全てのデータを消した。その時も、なんの感慨も心にはわき起こらず、その無感動は僅かに寂しさをもたらした。
 僕個人に限らず、テキストサイト全体が、衰退してゆく時期であったらしい。ブログが現れ、それを芸能人なども利用するようになり、インターネットというもの自体が性質を変えて行くと、書き手や読み手も入れ替わった。
 僕自身、テキストサイトを見ることはなくなったし、周りの人間も、かつてのように日記を更新している人間はまれになった。
 以前に「電波系ネットアイドル」を自称していた臥村あつるなども、もうサイトを運営しておらず、メッセンジャーでいつ話しかけても編み物をしている。何故そんな女性らしさ、おしとやかさをアピールしているのだ、何か企んでいるのかと、僕が率直に疑いを口にすると、自分はもとよりそういう静かな人間であったのだと、元に戻っただけだと、にべもない。
 彼女は僕がサイトをはじめたばかりの頃からの、最も古い知り合いの一人で、一度くらいは会ってみたいと思っていたのだが、結局そうした機会はなかった。そのまま彼女はほとんどメッセンジャーにログインしなくなり、いつのまにか消えていた。
 彼女の生活がネットやそこでのつき合いを必要としなくなったのだろう。そしてそれは僕にとっても同様だった。

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電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

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