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産後の女性の生き方は、タイミングは異なれど、専業主婦かワーキングマザーに枝分かれする。
日中働きに出る場合、幼い子供を預ける場所が必要になるが、待機児童が多い地域での保育園探しは難航し、祖父母を頼れる環境の家族も多くはない。
そのため、はじめに選んだ専業主婦とワーママの道は、気軽にいったりきたりできない。
この構図は、それぞれの立場への理解を浅くし、「専業主婦は家事を完璧にやるべき」だとか「預けてまで働くなんて子供が可哀相」だとか、当事者を追い詰める評価やレッテルがいくつも生まれた。
ここ数年は、SNSの広まりによって、各家庭の事情があるわけだし、ライフスタイルで判断するのはやめようよ、という論調に落ち着いてきた印象がある。特に若い世代では。
しかし、この影響があってのことなのか、最近は専業主婦 VS ワーママではなく、ワーママの中でさらなる比較・対立構造が生まれてしまっている気がする。
バリキャリかゆるキャリか、フルタイムか時短か、正社員かパートタイムか。
「働き方の強度」とそれをとりまく「環境のめぐまれ度」を引き合いにだし、「産後キャリアアップやジョブチェンジできる人は運がよかっただけ」という意見と「産後もキャリア継続できたのは、自身が準備と努力を惜しまなかったから」という意見が戦っている。
世はワーママ内戦時代。
働く女性をとりまく「努力」と「運」ふたつの要素を考えたい。
働くママはみんな迷い、無理をしている
なぜこのような議論が起きるかというと、子どもを産んだことで、「働く時間」に制限がかかり、その結果、給与が下がったり、不本意なキャリアデザインになってしまった人が多いからだ。
保育園のお迎え時間や病欠対応の発生によって、責任のある業務を任されなくなったり、いわゆるマミートラックに乗ってしまったと感じる人にとって、同じく子持ちであるのに、産前以上にバリバリ活躍するママは、目に痛いほど、まぶしい。
そこに「実家が近くて親に頼れる」「夫がフリーランスだから送迎は彼がする」「保育園に病児保育のサービスもある」などの自分にはない環境リソースがチラついてしまうと、なんだそんな条件なら自分だってもっと仕事ができる、この人は運がいいだけじゃないか、と手品のタネに気づいてしまったときのような、少しシラけた気持ちも湧く。もちろん単純な羨ましさも。
そして「産後にキャリアつめるかは運次第でしょ理論」ができあがる。
一方で、めぐまれた環境だと思われるママにも言い分はある。
保育時間や環境の整った保育園に入園させるため産前から行動したり、わざわざ実家の近くに引っ越したり、リモートワークやフレックス出勤のできる職場に転職したり、資格をとってマミトラ対策をしていたりする。
つまり「環境を整える準備をしたから今があるのであって、運じゃなくて努力だよ」という主張がある。
こう書くと、前者が後者をねたんでいるだけのようにも聞こえるが、この内戦の背景には、キャリアアップ組の主張の中に「つまりあなたたちは努力が足りなかったのよ」と優劣をつけにいく気配が含まれる場合が少なくない。
そして運でしょ理論側にも、「これは能力の差ではなく、単に運の差なのだ、あの人はすごくないし、私がダメなわけじゃない」と自己防衛の延長ではあるのだが、相手への否定意見がにじんでいる。
ワーママはどんな立場にあれ、子供がいない期間の働き方よりも、幾分か無理やむちゃをして生活を回している人が大多数である。
睡眠時間を削り、趣味を封印して、残業できない分も定時内は脳がヒート状態だ。
みんな、疲れている。
そして疲れたからと言って、簡単に放り出すことなどできない生活に、さらに消耗する。
なので、自分のギリギリの生活を否定的に表現されてしまうと、怒りやむなしさが舞い上がり、「すごく嫌だな」という気持ちでいっぱいになってしまう。
お互いに讃えあいたいはずのワーママ同士の対立は、なくすことができるだろうか。