覚悟せねばならなかった」海に挑む時ー4

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 あわせ一枚では肌寒さを感じるようになった九月、重正が取り巻きを連れて作事場にやってきた。

「嘉右衛門さん、ちょっと来てくれねえか」

 作事場の隅にある休憩所に勝手に座った重正は、取り巻きを立たせたまま、嘉右衛門だけに「まあ、座んなよ」と座を勧めた。

 そのゆうよう迫らざる態度は、この作事場の持ち主が誰かを示そうとしているかのようだ。

「棟梁、わざわざお越しいただき—」

「挨拶はいい。今日は大事な話で来た。磯平はいねえが、誰かを同席させないでいいのかい」

 重正は、明らかに嘉右衛門を隠居として見ていた。

「熊一と梅を呼んでこい」

 近くにいた小僧が走ると、すぐに二人がやってきた。

「お前が熊一か」

「へい」

「こんな小僧とは思わなかった。どうりで仕事が遅いわけだ」

 重正が吐き捨てるように言う。

「大福帳(帳簿)を見せろ」

 背後の取り巻きから大福帳を受け取った重正は、数字を指し示した。

「ここ一年の船造りの成果だ。たった六隻しか造れず、利は出ていないどころか散用(経費)を下回っている」

 嘉右衛門にも帳簿ぐらいは読める。確かにこれまで以上に、船一隻を造る期間は長引いており、利益が出ていないのも分かる。

「この一年、新造船が少なかったのは確かですが、中作事(修繕)は例年より多く—」

「中作事じゃ、たいした金にならないのは分かっているはずだ」

「それはそうですが—」

「中作事で手いっぱいになり、何隻もの新造船を断らざるを得なかったってわけだな」

 それは事実だが、嘉右衛門としては新造船だろうが中作事だろうが、先に注文の入ったものからこなすのは当然だと思っていた。

そつですが」と熊一が発言を求めた。

「なんでえ」

「船一隻を造る散用が増えているのは、流れ大工に多くの給金を払っているからです。それだけでも—」

「お前は黙っていろ!」

 嘉右衛門が一喝する。ここで重正の心証を害してしまえば、不信感が次の世代まで引き継がれる。

 熊一が口を閉じるや、重正が言った。

「皆に働き続けてもらうには、給金を半分ほどに下げなければならねえ」

「半分と仰せか」

 嘉右衛門が愕然とする。

「棟梁、お言葉ですが—」

 それまで大福帳をにらんでいた梅が、発言を求める。

「棟梁のお持ちになった大福帳を拝見すると、この作事場に掛かっているもの以外も、計上されているような気がします」

「何だと。それはどこだ」

「ひより、すいとう簿を持ってきて」

「ここにあります」

 ひよりは手回しよく、作事場の出納記録が書かれた台帳を持ってきていた。

「これを見て下さい。四月に申請した作事場の材料費は二十三両なのに、そちらでは二十九両になっています」

「何だと」

 重正は双方を見比べると、泰然自若として言った。

「まあ、そういうこともある」

「お待ち下さい。流れ大工の人数も違っています。四月は四人しか働いていませんでしたが、ここでは七人分が計上されています」

 重正が関心なさそうに言う。

「知らねえな」

「これは明らかに水増しされています。わたしたちが数字に弱いと思い、わざわざこういう大福帳を作ったのですか。それとも、誰かが何かの散用を作事場に計上しているのかのどちらかです」

「そっちの記録が間違ってるんじゃねえのか」

「いいえ。ここでは外から入ってくるものはすべて船荷なので、船荷台帳と突き合わせれば分かります」

 重正の顔色が徐々に変わってくる。

「梅、引っ込んでろ!」

 嘉右衛門が再び一喝する。

 梅は重正の遊興費を上乗せされていると疑い、自分の出納簿を作っていた。だが重正の悪行を指弾したところで、主人が重正である限り、何の意味もない。

 嘉右衛門が腰を折りつつ言う。

「委細、承知しました。これからも散用の節減には尽力いたします。ですから給金の削減だけは、ご勘弁下さい」

 それをうなずいて聞いていた重正が立ち上がる。

「分かったよ。当面は勘弁してやる」

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男たちの船出

伊東潤
光文社
2018-10-17

コルク

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