六月、佐渡に向かう大工たちが牛島に集まってきた。嘉右衛門の作事場からも、丸尾重正の許しを得て、甚六と権蔵という二人の若い大工が派遣されることになった。二人とも若いが腕は確かなので、嘉右衛門にとっては痛手だった。
だが嘉右衛門は、重正のやることに文句を言える立場にない。拗ねるように自宅に引き籠っていると、作事場から人が駆け付け、船大工の善吉が倒れたと告げてきた。善吉は嘉右衛門より五歳ほど年下の大工で、若い頃から一緒に働いてきた仲である。
慌てて善吉の家に駆け付けると、家族が泣き崩れていた。医家の話によると、脳に血を送っている脈が切れたらしく、もう意識が戻ることはないという。
——お前まで逝っちまうのか。
嘉右衛門は愕然とした。
その時、善吉の妻から「権蔵を遠くにやらないで下さい」と言われ、権蔵が善吉の息子だということを思い出した。
権蔵も母親たちに泣き付かれ、佐渡行きを半ばあきらめているようだった。
権蔵の意思を確かめると、「致し方ないです」と答えたので、嘉右衛門は母親に「権蔵を行かせない」ことを約束した。
嘉右衛門が舌足らずな言葉で母親と権蔵の妹たちを慰めていると、そこに弥八郎と磯平が駆け込んできた。どうやら善吉の異変を、磯平が弥八郎に伝えたらしい。
「ま、まさか善吉さんが——」
「なんてこった」
二人は啞然として言葉もない。
「騒ぐな。表に出ろ」
弥八郎を善吉の家に上がらせもせず、嘉右衛門は外に連れ出した。それを磯平がはらはらしながら見ている。
「見ての通りだ。先生によると、善吉が正気に戻ることはないという。いつまでかは分からないが、善吉はあのまま寝たきりだ」
弥八郎が悄然と頭を垂れる。
「今、内儀とも話し合ったんだが、こういうことになっちまったからには、権蔵を佐渡島に送ることはできねえ。本人も承知している」
何かを言い掛けて、弥八郎が口をつぐんだ。
「丸尾屋の旦那には、わいの方から告げる」
そこに家の中から権蔵が現れた。
「弥八郎さん、見ての通りだ。母や妹たちを置いて遠くに行くことはできねえ」
「ああ、分かった。当然のことだ」
「でも、わいの得意とするところは、誰が代わりにやるんだい」
権蔵は磯平から直に「はり合わせ」や「摺合わせ」の技を伝授してもらったこともあり、この技術においては、嘉右衛門の作事場では磯平に次ぐ者となっていた。
「まだ何も考えていない」
弥八郎の顔には落胆の色が漂っていた。「はり合わせ」や「摺合わせ」を権蔵に任せようと思っていたに違いない。もしかすると権蔵抜きでは、計画が頓挫することも考えられる。
嘉右衛門の一部が囁く。
——いい気味だ。権蔵を渡してはならないぞ。
心の奥底で眠っていた嫉妬心が頭をもたげる。
弥八郎が権蔵を説得するかもしれないと思った嘉右衛門は、ここで念押ししておこうと思った。
「弥八郎、権蔵のことはあきらめるんだぞ」
「そんなこと、おとっつぁんに言われなくても分かってらあ」
「じゃ、さっさと島から出ていけ」
「ああ、そうさせてもらう」
弥八郎が踵を返した時だった。
「ちょっと待って下さい」
磯平である。
「ここには、権蔵が残るわけですね」
「ああ、聞いた通りだ」
「それじゃ、うちの作事場から誰かもう一人、行かせなければなりませんね」
「甚六だけでいい」と嘉右衛門が釘を刺す。
「でも、大船の『はり合わせ』や『摺合わせ』はとくに難しい。それに熟達した者でないとしくじります」
「何が言いたい」
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