誰か好きな人はできたのかい」海に挑む時ー1

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 瀬戸内海の気候は一年を通して安定している。冬の季節風は中国山地に、夏の季節風は四国山地によって遮られているため、夏を除けば空気が乾燥している日が多く、年間降雨量もほかの地に比べれば少ない。

 とくに夏のゆうなぎは独特で、自然を司る神々が眠ったかのように風がなくなり、磯に打ち寄せる波の音もかすかに聞こえる程度になる。

 すべてが静止画のように動かなくなり、長く尾を引くようなねり雲雀ひばりの鳴き声が聞こえなければ、時が止まったかのような錯覚を覚える。

 —ここが、わいの故郷だったな。

 塩飽を出奔してから、大坂そして佐渡へと渡る目まぐるしい日々を送っているうちに、それまでの生涯の大半を過ごしてきた故郷塩飽が、弥八郎には現実に存在するものと思えなくなっていた。

 —そうか。もうここに、わいの居場所はないんだな。

 自分にとって唯一無二の場所が次第にそうではなくなっていく感覚を、弥八郎は味わっていた。

「弥八郎さん」

 その時、背後から声が掛かった。

 驚いて振り向くと、ひよりが立っていた。

「なんだ、お前さんか。わいについてきたのか」

「はい」

 ひよりの声は練雲雀のように澄んでいた。

 作事場の皆には「墓参りに行ってくる」と言い置いてきたので、ひよりが追ってくるかもしれないとは思っていた。というよりも、そうしてほしいという気持ちがあったのかもしれない。

 ひようたんに入れてきた酒を墓石に掛け、もう一度手を合わせた弥八郎は、勢いよく立ち上がると振り向いた。

「ゆっくり話をする機会を持てなくて、すまなかったな」

 ここのところ塩飽の島々を回っていたので、弥八郎は牛島に戻っていなかった。

「いいんです。お忙しいでしょうから」

 弥八郎は、ひよりを誘うように先に歩き出した。

「お前さんが、本当に塩飽に来るとは思わなかったよ」

「ほかに行くあてもありませんから」

「そうだったな」

 大坂で語り合った時のことが思い出される。

「この墓所には、わいの母親も眠っている。わいは母親に会いたいと思ったら、夜でも家を抜け出してここに来た」

「夜でも」

「ああ、死んだもんたちを恐れることなんてない。死んだもんたちは生きているもんたちを守ってくれている。和尚さんがそう言っていた」

「そうなんですか。でも—」

「死んだもんが怖いのは、あちらのことが分からないからだ。人は皆、分からないから怖いと思う。わいも坊主じゃないから分からない。ただ分かっているはずの和尚が『何も怖くない』と言っているんだから、それを信じるしかない。北海の荒波も知らないから怖いだけだ。知ってしまえば怖くはない」

 弥八郎は知らずにじようぜつになっていた。なぜかひよりを前にすると、奔流のように言葉が溢れる。

「弥八郎さんは、冬の北海でも走れる大船を造ろうとしているんですね」

「そうだ。そのために大工を集めにここに戻ってきた」

「それで、ほかの島を回っていたのですね」

 塩飽七島には、牛島のほかにも本島、広島、ひついしじまなど大きめの島には、船造りをしている作事場がある。弥八郎はそれらの作事場を回って、人を出してもらう交渉をしていた。

「それぞれの島にある作事場の主に頼み込み、やる気のある者を出してもらっている」

「集まり具合はどうなんですか」

「いい感じだ。皆、新しいことに挑みたがっているからな」

 河村屋七兵衛が保証した大工の給金と、人材を供出した作事場への手当てが法外だったので、どこの作事場も二つ返事で了解してくれた。中には「もっと多くの大工を出せる」と言ってくれる作事場の主もいたが、それは丁重に断った。

 また誰でもいいというわけではないので、技量を見定めた上で慎重に人選した。その結果、すべては順調に進み、すでに十人ほどの若手大工が佐渡島に渡ることになっていた。残る枠は六人ほどで、それも近日中には決まるはずだ。

 —だが皆には、わいがおとっつぁんと決裂したと伝わっているはずだ。それでも承知してくれるのはなぜだ。

 そこから導き出される答えは、嘉右衛門の影響力が低下しているということだった。

「いつ頃、塩飽を後にするんですか」

「あと五日から十日ほどだ」

 ひよりは驚いたようだ。

「千石船造りも悠長にやっているわけにはいかねえ。次の冬には造った船を佐渡の海に浮かべる」

「そうだったんですね」

 ひよりが何かを待っているのは明らかだった。

 —一緒に来ないかと、ひよりは言ってほしいに違いない。

 だが安易に、そんな言葉は口にできない。

 二人の間に重い沈黙が漂う。

 —わいはこの女に惚れているのか。

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男たちの船出

伊東潤
光文社
2018-10-17

コルク

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伊東潤

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