—やけに小さくなったな」若獅子の船 ー10

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 風が南東に変わると、夏が急速に近づいてくる。瀬戸内の夏は湿った空気に悩まされる。

 小浦にある作事場は海側に大きく開いている。そのため、いつもは海風が入ってきて気分がいい。しかし風のない日は、手先が汗ばんで仕事に差し支えるほどだ。

 嘉右衛門は日増しに磯平への依存度が高まり、作事場の差配は、すべて磯平に任せるようになっていた。弥八郎が戻らないなら、頭の座を磯平に譲ってもいいとさえ思っていた。

 それとなくそんな話をすると、磯平は「そんなつもりで仕事をしているわけじゃありません」と言い、「ぼんが帰ってこないなら、熊一に跡を取らせるべきです」と返してきた。確かに、市蔵の息子の熊一を養子に迎え、二つ年上の梅とめあわせるのが妥当に思える。

 だがそれで、後顧の憂いがないわけではない。

 丸尾屋の新たな主人となった重正は、嘉右衛門の忠告に耳を貸さず、どこからか流れ大工を探してきては、作事場で働かせていた。だが流れ大工は気難しい者が多く、なかなか塩飽の流儀に従おうとしない。そのため二度手間や三度手間が発生することもあり、仕事は遅々として進まず、納期も遅れがちになっていた。

 重正はしばしば作事場に顔を出し、「引き渡し期限を守れないと、注文主は金を出し渋る。となれば、こちらも値引きせねばならず、利益が出ない。どうしてくれるんだ」と文句を言ってきた。

 その度に嘉右衛門は大工仕事の難しさを語ったが、重正は利益を優先し、仕事の質を顧みようとしない。

 そんな五月、弥八郎がぶらりと帰ってきた。

 嘉右衛門の作事場のみならず、牛島全体がどよめくような突然の帰郷だった。

「今、帰ったぜ」

 弥八郎が作事場に顔を出すと、かつて親しかった同世代の者たちが、喜びをあらわにして駆け寄ってきた。

 船が着く前に「帰ってくる」という書簡が届いていたので、作事場の連中にさほどの驚きはなかったが、作事場の隅につながれた飼い犬たちは狂ったように吠えたてた。

 磯平も笑みを浮かべて出迎えた。

「ぼん、お帰りなさい」

「磯平さん、聞いたぜ。おとっつぁんを支えてくれてありがとな」

「わいなんて、たいしたことはしていません」

 熊一も駆け寄ってきた。

「弥八郎さん、よくぞお帰りに—」

「熊一、随分と大きくなったな。しかも市蔵さんにそっくりだ」

 大工たちも皆も寄り集まってくると、口々に弥八郎の帰郷を祝った。

 その時、母屋の方から二つの影が走ってきた。

「兄さん、おかえり!」

「梅、今帰ったぞ」

 一つの影は梅だった。だがもう一つの影は、三間(約五・四メートル)ほど先で歩みを止めて震えていた。

 —やはり、来ていたのか。

 弥八郎は、なぜか胸の鼓動が高まるのを感じた。

「ひよりちゃんかい」

 弥八郎の声に、小さな影がゆっくりと近づいてきた。

「やはり、そうか」

 あの日は夜だったので、弥八郎はひよりの顔をうろ覚えだった。

「弥八郎さん、あの時は—」

 その後は嗚咽にかき消された。

 皆はひよりを囲み、「よかったな」と声を掛けている。

「もういいんだ。泣くなよ。お前の運が開けたのは、わいのおかげじゃない。お前の日々の行いを、お天道様が見ていたからだ」

「それは本当ですか」

「ああ、どんな仕事をしようと、正しく生きることを忘れなければ、運は開ける。わいにも、いろいろ焦りはあった。お前の前で『この世は思い通りいかない』とも言った。だが黙々と仕事をこなしていたら運が開けてきたんだ」

「よかったですね」

 ひよりは泣き笑いをしていた。

「だが、勝負はこれからだ」

「えっ、勝負って—」

 弥八郎は、皆に対して言うべきことは言わねばならないと思った。

「実は、ここには長居できねえ」

 磯平が細い目を見開く。

「てことは、佐渡島に戻られるんで」

「ああ、そういうことになる」

「どうしてまた—」

「話は後だ。おとっつぁんはどこにいる」

 熊一が答える。

「先ほど、『一服する』と言って浜の方に行きました」

「そうか。皆には後で話をする。少し待っていてくれ」

「へい」と声を合わせて、皆はそれぞれの仕事に戻っていった。

「弥八郎さん」

 ひよりが物言いたげな視線を向けてきた。

「悪いが後にしてくれ。今はおとっつぁんと、さしで話をしなきゃなんねえんだ」

 そう言い残すと、作事場の通路を浜側まで抜けた弥八郎は、遠くにいる人影を見つけた。

 人影は浜の流木に腰掛け、一服していた。

 —やけに小さくなったな。

 かつて広くがっしりしていた嘉右衛門の両肩は、随分となだらかなものに変わっていた。

 —おとっつぁんにも、いろいろ辛いことがあるんだな。

 それが何かは分からない。だが丸尾屋の作事場に入ってから、弥八郎は微妙な空気の変化を感じていた。

 皆に「何があっても来るな」と告げると、弥八郎は嘉右衛門の許に向かった。

 砂を踏む足音が聞こえているはずだが、嘉右衛門はいちべつもくれない。

 逆にその様子が、嘉右衛門らしくて懐かしい気がした。

「おとっつぁん、帰ってきたぜ」

 嘉右衛門は弥八郎の方を見ずに一服すると、紫煙を吐き出した。

「そうか。で、何の用だ」

 —やはり、そう来たか。

 むろん弥八郎とて、嘉右衛門が涙を流しながら帰郷を喜んでくれるとは思っていない。だが喧嘩別れしてから四年近くも経っているのだ。少しぐらいは心を開いてくれてもいいと思った。

 弥八郎は気を取り直すと問うた。

「おとっつぁんは、変わりなさそうだな」

 嘉右衛門には、まだわだかまりがあるのか、冷めた顔で海を眺めている。

「お前は、わいに何も言わずに出ていった。帰ってきたら、それなりの挨拶ってもんがあるんじゃねえのか」

「だから一度、便りを出して消息を伝えたじゃねえか」

「消息を伝えただけで許してもらえるとでも思ったのか」

「そうじゃねえが—」

「常であれば、『勝手に出ていって申し訳ありませんでした。お願いですから、もう一度、ここで働かせて下さい』って言うべきだろう」

 —そうか。おとっつぁんは、わいがここに帰ってきたと思ってるんだな。

 嘉右衛門の様子からすれば、これから話すことを受け入れてもらえるとは思えない。

 —だがここで何とかしねえと、千石船は造れねえ。

「まず、わいの話を聞いてくれねえか」

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男たちの船出

伊東潤

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「船」 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーシ...もっと読む

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