風が南東に変わると、夏が急速に近づいてくる。瀬戸内の夏は湿った空気に悩まされる。
小浦にある作事場は海側に大きく開いている。そのため、いつもは海風が入ってきて気分がいい。しかし風のない日は、手先が汗ばんで仕事に差し支えるほどだ。
嘉右衛門は日増しに磯平への依存度が高まり、作事場の差配は、すべて磯平に任せるようになっていた。弥八郎が戻らないなら、頭の座を磯平に譲ってもいいとさえ思っていた。
それとなくそんな話をすると、磯平は「そんなつもりで仕事をしているわけじゃありません」と言い、「ぼんが帰ってこないなら、熊一に跡を取らせるべきです」と返してきた。確かに、市蔵の息子の熊一を養子に迎え、二つ年上の梅と娶せるのが妥当に思える。
だがそれで、後顧の憂いがないわけではない。
丸尾屋の新たな主人となった重正は、嘉右衛門の忠告に耳を貸さず、どこからか流れ大工を探してきては、作事場で働かせていた。だが流れ大工は気難しい者が多く、なかなか塩飽の流儀に従おうとしない。そのため二度手間や三度手間が発生することもあり、仕事は遅々として進まず、納期も遅れがちになっていた。
重正はしばしば作事場に顔を出し、「引き渡し期限を守れないと、注文主は金を出し渋る。となれば、こちらも値引きせねばならず、利益が出ない。どうしてくれるんだ」と文句を言ってきた。
その度に嘉右衛門は大工仕事の難しさを語ったが、重正は利益を優先し、仕事の質を顧みようとしない。
そんな五月、弥八郎がぶらりと帰ってきた。
嘉右衛門の作事場のみならず、牛島全体がどよめくような突然の帰郷だった。
「今、帰ったぜ」
弥八郎が作事場に顔を出すと、かつて親しかった同世代の者たちが、喜びをあらわにして駆け寄ってきた。
船が着く前に「帰ってくる」という書簡が届いていたので、作事場の連中にさほどの驚きはなかったが、作事場の隅につながれた飼い犬たちは狂ったように吠えたてた。
磯平も笑みを浮かべて出迎えた。
「ぼん、お帰りなさい」
「磯平さん、聞いたぜ。おとっつぁんを支えてくれてありがとな」
「わいなんて、たいしたことはしていません」
熊一も駆け寄ってきた。
「弥八郎さん、よくぞお帰りに——」
「熊一、随分と大きくなったな。しかも市蔵さんにそっくりだ」
大工たちも皆も寄り集まってくると、口々に弥八郎の帰郷を祝った。
その時、母屋の方から二つの影が走ってきた。
「兄さん、おかえり!」
「梅、今帰ったぞ」
一つの影は梅だった。だがもう一つの影は、三間(約五・四メートル)ほど先で歩みを止めて震えていた。
——やはり、来ていたのか。
弥八郎は、なぜか胸の鼓動が高まるのを感じた。
「ひよりちゃんかい」
弥八郎の声に、小さな影がゆっくりと近づいてきた。
「やはり、そうか」
あの日は夜だったので、弥八郎はひよりの顔をうろ覚えだった。
「弥八郎さん、あの時は——」
その後は嗚咽にかき消された。
皆はひよりを囲み、「よかったな」と声を掛けている。
「もういいんだ。泣くなよ。お前の運が開けたのは、わいのおかげじゃない。お前の日々の行いを、お天道様が見ていたからだ」
「それは本当ですか」
「ああ、どんな仕事をしようと、正しく生きることを忘れなければ、運は開ける。わいにも、いろいろ焦りはあった。お前の前で『この世は思い通りいかない』とも言った。だが黙々と仕事をこなしていたら運が開けてきたんだ」
「よかったですね」
ひよりは泣き笑いをしていた。
「だが、勝負はこれからだ」
「えっ、勝負って——」
弥八郎は、皆に対して言うべきことは言わねばならないと思った。
「実は、ここには長居できねえ」
磯平が細い目を見開く。
「てことは、佐渡島に戻られるんで」
「ああ、そういうことになる」
「どうしてまた——」
「話は後だ。おとっつぁんはどこにいる」
熊一が答える。
「先ほど、『一服する』と言って浜の方に行きました」
「そうか。皆には後で話をする。少し待っていてくれ」
「へい」と声を合わせて、皆はそれぞれの仕事に戻っていった。
「弥八郎さん」
ひよりが物言いたげな視線を向けてきた。
「悪いが後にしてくれ。今はおとっつぁんと、さしで話をしなきゃなんねえんだ」
そう言い残すと、作事場の通路を浜側まで抜けた弥八郎は、遠くにいる人影を見つけた。
人影は浜の流木に腰掛け、一服していた。
——やけに小さくなったな。
かつて広くがっしりしていた嘉右衛門の両肩は、随分となだらかなものに変わっていた。
——おとっつぁんにも、いろいろ辛いことがあるんだな。
それが何かは分からない。だが丸尾屋の作事場に入ってから、弥八郎は微妙な空気の変化を感じていた。
皆に「何があっても来るな」と告げると、弥八郎は嘉右衛門の許に向かった。
砂を踏む足音が聞こえているはずだが、嘉右衛門は一瞥もくれない。
逆にその様子が、嘉右衛門らしくて懐かしい気がした。
「おとっつぁん、帰ってきたぜ」
嘉右衛門は弥八郎の方を見ずに一服すると、紫煙を吐き出した。
「そうか。で、何の用だ」
——やはり、そう来たか。
むろん弥八郎とて、嘉右衛門が涙を流しながら帰郷を喜んでくれるとは思っていない。だが喧嘩別れしてから四年近くも経っているのだ。少しぐらいは心を開いてくれてもいいと思った。
弥八郎は気を取り直すと問うた。
「おとっつぁんは、変わりなさそうだな」
嘉右衛門には、まだわだかまりがあるのか、冷めた顔で海を眺めている。
「お前は、わいに何も言わずに出ていった。帰ってきたら、それなりの挨拶ってもんがあるんじゃねえのか」
「だから一度、便りを出して消息を伝えたじゃねえか」
「消息を伝えただけで許してもらえるとでも思ったのか」
「そうじゃねえが——」
「常であれば、『勝手に出ていって申し訳ありませんでした。お願いですから、もう一度、ここで働かせて下さい』って言うべきだろう」
——そうか。おとっつぁんは、わいがここに帰ってきたと思ってるんだな。
嘉右衛門の様子からすれば、これから話すことを受け入れてもらえるとは思えない。
——だがここで何とかしねえと、千石船は造れねえ。
「まず、わいの話を聞いてくれねえか」
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