塩飽の春は早い。だが快晴の日が続いていたかと思うと、突然、霧に包まれることがある。春から初夏にかけて、気温が急速に上がるのに海水温がついていけず、濃霧が発生しやすくなるからだ。しかもこの時期の瀬戸内海は風が弱く、湿った空気がたまりやすいことから、なかなか霧が晴れず、漁師たちは沖に出られないこともある。
そんな時には、おかしなものを見る者がいる。
二月のある日、牛島に隣接する本島の漁師が、本島の北西端のフクベ鼻で小魚を釣っていると、霧の中から大きな船が現れ、沖に向かっていくのを目撃した。
それだけなら現実に存在する船か幽霊船かの区別もつけられず、何ということはない話なのだが、その船の横腹に書かれていた文字が清風丸だったことから、噂は牛島にも伝わってきた。
その話を聞いた嘉右衛門は当初、「よくある与太話さ」と思って取り合わなかった。だが船上に人影を見たという話を聞き、その漁師に会いたくなった。たとえ幻でも、市蔵の有様を聞き、その姿から何らかの示唆や警鐘を汲み取ることができるかもしれないと思ったのだ。嘉右衛門は本島に野暮用を作り、そのついでに漁師の許に行ってみることにした。
その漁師は、本島の北西にある福田という小さな港の近くに住んでいるという。福田の知人を介して漁師に来訪の趣旨を伝えると、会ってくれるという。
現れたのは六十過ぎとおぼしき老人だった。その朴訥そうな顔を見れば、法螺話をして注目を集めたいという類の人間ではないと、すぐに分かった。
老人が言葉少なに語るには、霧の中から突然、大船が姿を現し、老人の存在など無視して北西に向かって進んでいったという。だが大船の寄せ波で老人の小船が揺らぐことはなかったので、すぐにこの世のものではないと気づいたらしい。
「その船の横腹に、清風丸と書かれていたんだな」
「ああ、そう読めた」
老人の様子に噓や偽りは感じられない。
——市蔵と仲間たちは、塩飽の海をさまよっているのか。
嘉右衛門は、幽霊船となった清風丸が牛島を探しているような気がした。
「で、船の上に人影を見たってな」
携えてきた徳利酒と小遣いを握らせると、老人が潮焼けした顔をほころばせた。
「ああ、見たよ」
「何人くらいいた」
「何人もいたが、皆、何かの仕事をしていた。舳に立って沖を見つめる一人の男を除いてな」
——市蔵だ。
直感のような閃きが嘉右衛門を襲う。
「そいつは、どんな姿をしていた」
「そういえば、あんたに似ていた」
それを聞いた時、嘉右衛門は落胆した。
——この食わせ者め。
嘉右衛門と市蔵は、顔も体型も似ても似つかない同腹兄弟として、よく知られていたからだ。
馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、嘉右衛門はなおも聞いてみた。
「その男は、いくつくらいだった」
「若かったよ」
「若いというと——」
「二十歳前後ってとこかな」
——いよいよ駄目だな。
嘉右衛門は引き時を覚った。市蔵は控えめに見ても若いとはいえず、年相応か実年齢よりも老けて見られていた。
老人が、当時のことを思い出したかのようにまくしたてた。
「その若い男は舳に立ち、悲しげな顔で前方を見つめていた。本当に悲しげな顔だった。そういえば、あんたと同じ丸尾屋の厚司を着ていた」
——あの時、市蔵は丸尾屋の厚司を着ていかなかった。
落胆は深まる。
「そうか。ありがとうよ」
嘉右衛門は礼を言うと、その場を後にした。
——わざわざこんなところまで来て、わいは何をやっているんだ。
嘉右衛門は、幽霊話を聞きに本島まで来た自分に腹立たしさを覚えていた。
その後、本島港から牛島行きの船に乗った嘉右衛門は、無意識に左右の海を見回し、幽霊船を探している己に気づいた。
——馬鹿馬鹿しい。わいの心は弱ってきているのか。
海から視線を外し、足元を見た時だった。突然、何かが閃いた。
——乗っていたのは、市蔵じゃなく弥八郎じゃねえのか。
さすがに弥八郎は息子なので、嘉右衛門に似ている。漁師の老人に、もっと特徴を聞いておけばよかったのだが、あの時は作り話だと思ったので、詳しく聞かなかったことが悔やまれた。
——だがわいは、弥八郎に厚司を渡していない。
着の身着のままで牛島を飛び出した弥八郎が、丸尾屋の厚司を着ているはずがない。
——考えても仕方がない。このことは忘れよう。
もやもやした気持ちを抱きながら、嘉右衛門は牛島に戻った。
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