——わいは何のためにここにいるんだ。
作事場の一隅に仕切られた書棚の前で、嘉右衛門はなすところなく佇んでいた。
そこには、先代の儀助の頃から描かれた差図の巻物や木割が積まれている。だが嘉右衛門の作事場では、すでに定型的な船造りしかしていないため、それらを参照しに来る者は少ない。それゆえそこは、いつしか嘉右衛門の休憩所となっていた。
梅雨の長雨のせいか、ここのところ腰や膝がやけに痛む。長年にわたって腰を曲げたり、しゃがんだりして仕事をしてきたつけが回ってきているのだ。
——わいは、このまま朽ち果てることになるのか。
そんなことを思いながら、ぼんやりと古い木割を眺めていると、磯平が顔を出した。
「頭、そろそろ手仕舞いとします」
「ああ、そうしろ」
「頭は帰らないのですか」
「もう帰る」
「暗くならないうちに帰って下さい」
老人に対するような磯平の物言いに、なぜか腹が立つ。
「分かった」
以前なら「余計なお世話だ」くらいは言っていたところだが、最近は磯平に対して遠慮する気持ちが芽生えており、そこまでは言えない。
磯平が出ていくのを見届けた嘉右衛門は、見るでもなく見ていた木割を棚に戻すと、作事場の中を通って出入口に向かった。その時、造りかけの船の陰で、人の気配がするのに気づいた。
——まだ誰か残っているのか。
声を掛けようと思ってそちらに回ると、手燭を持って、何かを見つめる一人の男がいた。その背は、嫌というほど見慣れたものだった。
——市蔵、どうしてここに!
背後に人の気配を感じたのか、そのずんぐりとした体軀の男が振り返った。
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