経験だけが、新たな思案を生むものではありません」若獅子の船 ー5

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 清九郎の作事場では、様々な問題が噴出していた。

 その大半は主に流儀や大工間尺(寸法の取り方)の違いによるものだったが、何とか互いに歩み寄りを示しつつ作業を進めていった。各地から集まった大工を統制する清九郎の苦労は並大抵ではなく、神経をすり減らしているのは明らかだった。

 この日も舵の大きさに関する論争があった。すなわち舵の大きさを確保するには、それなりの強度が必要になり、舵と外艫部分に厚板を使用せねばならなくなる。だが、そうなると全体として船尾部が重くなってしまい、帆走に支障を来す。こういった問題が次々と現れてくるので、清九郎はその都度、全体を調整し、差図を描き直さねばならなかった。

 ある日、一日の仕事を終えて、皆が三々五々宿舎の方に向かう中、清九郎の部屋に灯りがともっているのに気づいた。

 弥八郎は思い切って声を掛けてみようと思った。

「精が出ますね」

「ああ、また木割を変えねばならなくなったからな」

「そうでしたね。皆の思案を取り入れるのは、並大抵なことではありませんね」

「まあ、それがわしの仕事だがな」

 清九郎の顔には、疲れと焦りが表れていた。

「千石積みの船ともなれば、五百石積みの船を大きくすればいいってもんじゃない。しかも、この荒れた海を千石もの米を積んで走るわけだ。船子たちの安全も考えなくちゃならない。さらに河口港の砂洲に舵を取られないようにしろという。これらをすべて満たしていると、船の大きさや重さが途方もないものになり、千石の米などとても積めなくなる。つまり、あっちを立てればこっちが立たぬというものばかりだ」

 口数の少ない清九郎には珍しく、愚痴めいたことを言った。

「仰せの通りです。わいらが取り組もうとしていることは、すべて矛盾だらけです」

「矛盾とは漢籍の言葉か」

「はい。寺子屋で習ったのですが、最強の盾とほこは共存し得ないということです」

「その矛盾とやらを、わしらは克服しようとしているのか」

「その通りです。しかし厄介事というのは、整理して考えると意外に解きやすいものです」

 この時になって、ようやく清九郎は、弥八郎の位置付けを思い出したらしい。

「もういい。帰って休め。愚痴を言っちまってすまなかったな」

「お待ち下さい。一つだけ言わせて下さい。例えば、外艫の強度を高めようとすれば、船尾部の重さが増してしまう。まさに矛盾ですね」

「何が言いたい」

 清九郎が顔を上げる。

「これまでは、千石船も五百石積みの船と同じに造ればよいと考えていました。しかし新しい木割や差図を考えていかないと、こうした矛盾はなくしていけません」

「そんなことは分かっている。だが、すべての厄介事を解決できる差図が描けないんだ」

「では、わいの話を聞いていただけますか」

「お前の話を聞けだと。馬鹿も休み休み言え、これまでお前さんは何艘の船を造ってきた」

 —そうした経験が、新しい思案の妨げになってるんじゃねえのか!

 胸底から怒りの炎が吹き上げてきた。だが弥八郎は、それを抑えると言った。

「仰せの通りです。わいは手伝いで船を造ってきただけで、己が指揮を執って造った船など一艘もありません」

「それが分かっているなら何も言うな。この仕事は経験を積まねばできない。経験を積んでいるからこそ、新しい思案も生み出せるんだ」

 だが清九郎の面には、不安の色が垣間見えた。

 —おとっつぁんと同じだ。

 嘉右衛門は厳格なだけでなく自信に溢れていた。その考えは鉄のように堅固で、雇い主の丸尾屋五左衛門でさえ手を焼くほどだった。だが時折、迷いのある顔をすることがあった。

 —あれは、経験にとらわれていることに対する不安だったんだ。

 弥八郎は勝負に出た。

「ですが頭、逆だとは考えられませんか」

「逆だと」

「そうです。千石船は佐渡の荒波に耐えるだけでなく、内海の浅瀬にも対応せねばなりません。そうした矛盾を打ち破っていくには、新しい思案が必要だと思うんです」

「そんなことは分かっている。だが経験なくして思案も出てこない」

 清九郎の面には、不安の色がありありと浮かんでいた。

「いかにも、その通りです。しかし経験だけが、新たな思案を生むものではありません。一を知る者には一の知識しかありませんが、十を知る者には十の知識がある反面、常識と思い込んでいる考え方(固定観念)に縛られることもあるんじゃないですか」

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伊東潤
光文社
2018-10-17

コルク

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0mo_om0 弥八郎の成長と、弥八郎自身も仕事で認められる喜びを感じ始めるのが嬉しい (´;ω;`) 3ヶ月前 replyretweetfavorite