9 そして夜は甦る
一日の仕事が終わり、西新宿の外れに着く頃には、日はもうとっぷりと暮れている。季節は冬から春へと移り変わっていたが、肌寒い日々が続いていた。私は二度目の給料で買った七千円もするダウンジャケットを着込み、JRを乗り継いだ。まだユニクロも丸ノ内線の西新宿駅もなかった(「まだ~はなかった」という言い回しを、私は何度口にしただろう!)。
駐車場にはブルーバードが停めてあった。老朽化したビルの二階の突き当たりまで進む。入り口のドアには〈渡辺探偵事務所〉と色褪せたペンキで書かれていた。ノックをすると、「どうぞ」と男の低い声が聞こえた。
「遅れてしまい、申し訳ありません」
事務所の奥にはデスクに座った男がいた。四十過ぎの、物静かだが日々に疲れ切った顔をしていた。男は来客用の椅子を指差した。私は従い、彼が正面に座った。
「昨日電話でお話ししていた件ですね」
私は自分のことをライターで、推理小説を書いていると伝えた。ついては取材をお願いしたいのですがと話したところ、彼は快くとは言わないものの、引き受けてくれた。私はこの日のために作った名刺を渡した。
「著作はありますか」
「ごめんなさい。きょうはうっかり忘れてしまいまして」
ネットがないといいこともある。ググれば一秒でバレるウソをつき続けることができた。
ドルフィン・ソングの殺人事件について、プロの意見を訊こうと思ったのだ。私は日時や実名を架空のものに置き換え、事件のあらましを説明した。探偵がひとつ質問するたびに、より詳しい状況を伝えた。彼は、「一般の人々は警察発表が真実と疑わないが、実際は寃罪が多く、これまでも無実の罪で死刑が執行されてきた」と話した。
「取調べ室が全面可視化されない限り、検察は調書を捏造し、濡れ衣を着せることが可能です。しかもその容疑者が有名人で、マスコミ操作により、重い刑罰も止む無しと誘導されたら……」
本やネットで囓った知識をそのまま伝えてみた。探偵は返す。
「しかしその男は自首していて、自白通りに彼の部屋で、被害者の遺体と凶器が発見されているのですよね。たとえ真犯人が他にいて、男が庇ったとしても……」
探偵は徐ろに両切りのピースを取り出し、ゆっくりと吸いだした。私は彼が吐き出す煙をぼんやりと眺めていた。考えごとをしていたが、一本を吸い終えると、
「モデルはあるのですか。ずいぶんとリアルだ」
褒めているのだろう。感心した様子だった。これ以上は手がかりとなるものは出てきそうになかった。私は礼を伝えた。もうひとつ、重要な別件を切り出してみた。
「ところで探偵さんは、身分を偽るというか、偽造免許証を作ってくれる人には、心当たりはありますか」
さっきまで温和さを湛えていた探偵の目に鈍く光るものがあった。いまさら引き下がることはできない。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。