宇多田ヒカルや吉田沙保里でもない限り、男と張り合うだけムダ。

【第6回】
豪と明人は2回目の呑み。鳴らした建築家だったことをどうして言わないのか、
と尋ねる豪に「現役じゃないから」と明人は応える。 朗らかな男の陰に触れた瞬間、豪は激しく恋に落ちたーー。
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 子どもの頃からわりと勉強もスポーツもできました。だけどクラスでいちばん人気があったのは、可愛くて、おとなしい、自分の意見を言わない子でした。

 中学の成績は4と5。内申書のことを考えて、生徒会長に立候補をしました。けれど女の担任は男子を選び、サポートに回るよう私に言いました。あそこで私は、この社会の何かに気付かされたような気がします。

 宇多田ヒカルや吉田沙保里でもない限り、この社会で男と張り合うだけムダ。それよりいつだって明るく、やりすぎない程度ににこにこしているほうが、女は幸せになれる。適度にフレンドリーでカジュアル、自然体で無理をしない。ぎすぎすするなどもってのほか。そういったニーズを念頭に置いておけば、女は生きやすい。可愛くしているほうが何かと得。そう割り切ったらラクになれました。

 妊娠したら会社を辞めなければならない。どんなに優秀な女性でも出産後はスーパーのレジ打ちしかない。外で戦うより、家で子どもを育てたほうがいい。私の母がそうだった。父も優しかった。「愛された子でなければ愛を知らない」とよく言っていた。いつだって誰にでも感じがいい、いい人たち。

 だけどどうしてあんなに存在感がなかったのか。

 親のように幸せにならなければならないと、刷り込まれてきたような気がします。まるでライバルのように、自分と比較していたのかもしれない。

 豪と出会う前までは年上が好きでした。いいなと思っていた人とバーで飲んでいたら、こんなことを言われた。

「きみは、ほんとは怖い女だよね」

『人間失格』で道化を見抜かれた主人公の気持ちはこんな感じだったのでしょうか。

 上のランクの男と結婚して、専業主婦として暮らす。夫の会社の役員に名を連ねて、寝ていても報酬を得る。「いいご身分で」と陰口を叩く人もいたでしょう。だけど私がそれと引き換えにあきらめたものと比べたら、これぐらい当然だと思う。何を望んでいたのか、いまとなっては思い出せないけれど。

 私が得たものは、とても小さなものでした。だけどそれに気付いてはいけない。後生大事にして、決して手放してはならない。そうしたら、私は私でなくなる。だから死に物狂いで守らなければならなかった。


 明人は自転車で恵比寿にあるアン・ミナールに赴いた。いつもはメールと電話のやりとりが多いが、たまに高田矢須子と打ち合わせがてら昼グリルを楽しむ。事務所兼ギャラリーに足を踏み入れると、バルーンアーティストによる色とりどりの風船が高い天井いっぱいを覆っている。ひとつとて大きさも形も同じものはない。「うちに依頼しに来る人たちの八割はファミリー層。うちを選んでくれたら、一歩目から夢を見せたい」という矢須子こだわりのデザインだ。

 矢須子は社員八人を雇う建築事務所の社長。明人はそこでリノベーションの仕事を回してもらっている。矢須子とは二十代の頃、同じ設計事務所で修業した。師匠は厳しい人だった。優しいのは往年の名女優である妻に対してだけ。徹夜は当たり前。手こそ上げないものの、モノを投げたり、暴言を浴びせてきたりは日常茶飯事。新人が数ヵ月で敵前逃亡する中、明人と矢須子は残って戦い続けた。ふたりは固い戦友意識で結ばれた。

 三十を目前にして矢須子は独立した。「見る前に跳べ」が彼女のモットーだ。矢須子に触発されて、明人も事務所に辞表を出した。

 アン・ミナールは最初の数年こそ下請け、孫請けが多かったが、新築住宅を紹介するテレビ番組で何度か取り上げられていくうち、大きな仕事が舞い込むようになった。近年は芸能人や引退したスポーツ選手のセカンドハウスや別荘の依頼が相次いでいた。彼らは金を出すが、口はもっと出す。スタッフには言えないストレスを、矢須子は明人だけに打ち明ける。

「あいつテレビではいい人ぶってるけど、カミさんには威張り散らして最低だよ。たいした俳優でもないのにさ、ナマで見ると足も短いし、顔もデカい。あんな奴、今に消えるよ」

「おいおい、お客様は神様だぞ」

「お客様が神様なんじゃない。お客様が持ってくるお金が神様なの」

 明人にはその傲慢さが懐かしい。勝者のみがそれを許される。矢須子もまた勝ち続けることが自分の存在証明であるかのように駆け抜けてきた。貪欲な彼女は、仕事だけでなく家庭も取った。子どもは来年成人式を頭に三人。男、男、女だ。夫の拓海は五つ下で、矢須子との結婚後、サラリーマンを辞めて専業主夫をしている。子ども三人の弁当はもちろん、アン・ミナールのスタッフの夜食まで用意する。矢須子は二十年間、家事をしていない。運動会や授業参観といったイベントも出たことがない。されど拓海は不満を口にしない。

「男が外で働き、女が家で子どもを育てるのって旧式のモデルだと思います。明人さんもご存知のように、ヤスちゃんって家庭に入るタイプとは程遠いし、建築の才能があってお金を稼ぐなら、僕が家に入ったほうがいい。彼女に思い切り仕事をしてもらったほうが、世のため人のため、家族のためでしょう」

 拓海は事も無げに言った。明人は感心しながら聞いていた。

 のちに明人が美砂と会って、同じことをしている。矢須子だけでなく、拓海の影響も受けたようだ。とはいえ拓海を見ていると頭が下がる。自分などまだまだ甘いと思える。

「ねえ、いいことあったんじゃない?」

 予約が取れないフレンチで、差し向いの矢須子が明人に訊ねる。明人はカシュー仔豚のローストを頰張って、聞こえないふりを決め込む。

 明人はここに来るまでのやり取りを思い出す。


 この日の朝、明人は保育園で豪と会った。とは言っても、互いに幼い子どもの手を引きながら、素知らぬ顔で挨拶を交わしただけだ。

「おはようございます」

「おはようございます。ライちゃん、おはようって」

 周囲には他の親たちもいる。視線を交えるのは一瞬だけ。それ以上は踏み入らない。偶然を装っているが、互いにLINEを送り合って、家を出るタイミングを計っている。「LINEは読んだ端から消去」がルールだ。

 初めての夜以降、明人と豪は逢瀬を重ねてきた。飲みに行ってばかりだと互いの妻に怪しまれるので、平日の昼間に同衾した。明人は光を保育園に預けた後、自由な時間があるが、豪は多忙を極めている。それでも豪は仕事場を抜けて、BMWで駆けつける。ふたりのことを知る人のいない街のホテルで待ち合わせする。カーテンが開くことはない。

 いつも高級ホテルばかり利用するわけではない。金も嵩むし、カードを使えばまなみが明細書を見て足がつく。場末のラブホテルに時間差で入るときの背徳感は、ふたりをたまらなく興奮させた。心地良い疲労から、互いに汗だくで眠りにつくときもある。ショートタイム終了の知らせに飛び起き、シャワーもなしで退室することもしばしばだ。

 明人は帰宅後、念入りにシャワーを浴びる。風呂掃除も兼ねる。残滓が付着した下着を洗濯機に放る。こういうとき、家事当番で良かったと思う。

 豪に忠告したことがある。

「気をつけてな。奥さんは勘が鋭いほう?」

「わかってるよ。だから終わった後はパンツに付かないよう、ティッシュに包んでいるんだ」

「え、何を?」

「ナニを」

 ふたりはくすくす笑う。

「包んだティッシュはどこに捨てるの」

「もちろんトイレだよ」

「帰ると同時に奥さんがパンツの中をチェックしないの」

「ご無沙汰だよ」

 思い出し笑いを堪えるのが大変だ。

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東京パパ友ラブストーリー

樋口毅宏

有馬豪は、渋谷にあるファンドマネージメント会社のCEO。30歳のイケメンであり、イクメンだ。 娘の亜梨が通う保育園で、鐘山明人というおっさん建築家と知り合い、飲みに誘われる。 これが、それぞれの妻を巻き込んでの地獄の幕開...もっと読む

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wakasatominori @96tlr あの頃のネットのノリと聞くと全部納得できます。noteでの小説連載記事も「 3ヶ月前 replyretweetfavorite