「どうして」
豪の声に、明人は食べ散らかした小鉢から視線を上げる。
「前ここで飲んだとき、自分の仕事のことを言おうとしなかったんですか」
明人はジョッキの底を見つめる。
「現役じゃないからだよ」
一瞬、明人の笑みが陰ったように見えた。
「結婚して、子育てをしながら建築なんてできない。発注を受けたら、一日二十四時間、建物について考えなければいけない。とてもじゃないけどいまの環境じゃ無理。保育園に迎えに行った後、考えることにフタをして、意識を中断させるなんてできっこない。子どもが大きくなるまで待つしかない。いまは光を保育園に預けている間、むかしの仲間から回してもらった細かい仕事をやっているけどね」
明人の笑みに憂いが沈む。豪はじっと、明人の白い首を見つめていた。
「奥様と、育児や家事は公平に分配しています?」
「言っただろう。美砂のほうが俺よりずっと立派な仕事をしている。いまの俺のいちばんの仕事は育児。二番目が家事。三番目が妻のサポート。妻は俺と一緒に住むようになってから一度も洗濯や風呂掃除をしたことがない。いいんだって。それは俺が望んだことなんだから。
美砂は三十九歳で光を産んでからというもの、体力が極端に落ちて頭も回らなくて、些細なことでキレるようになった。たまの休みの日は一日中寝ていてほしい。だけど月に一回ぐらいは光を預かってくれて、外で飲んできてもいいよと言ってくれる。きょうもそう。ありがたいよ」
「近所に親御さんは?」
「俺のほうはとっくに死んでいる。美砂は母親がいるが遠い」
「シッターさんを呼んで、保育園の後も光くんを預けたらいかがですか」
豪は苦い顔をする。
「あのね、気軽に言ってくれるけど、シッターを呼んだらいくら掛かるか知ってるの? 四時間で一万円だよ。議員とはいえ、妻は金持ちじゃない。俺もそうだ。そんな余裕はない」
豪は思い出す。まなみはよく、「お友達とゆっくりお茶がしたいからシッターさんを呼んだ」などと言っているが、そんなに高額だとは知らなかった。
「ま、言い訳だよね。みんな自分の時間をやりくりして頑張っている。子育てが嫌なら、なんで結婚したんだって話だ」
「なんで結婚したんですか」
明人は頰杖をついて、思いに耽る顔になる。いちいち様になっていると豪は思った。
「俺と美砂は出会ってまだ四年ぐらいで。最初のうちは羊の皮を被っていた。狼の耳と牙がはみ出していることに気付かないこっちのほうが悪いんだ」
「そもそもどうやって知り合ったのですか」
自分ばかり訊いていると豪は思った。
「ツイ婚」
「ツイ婚?」
「当時俺はツイッターをやっていて、自分の名前をエゴサーチしてみた。彼女が俺が設計した建物について呟いていたのでDMを送った。そこからだよ。間違いの始まりは」
豪がつられて笑う。
「それまでの俺は仕事第一で、女性とは適当に遊んでいた。で、美砂と会って、付き合い始めてわりとすぐにあっちから〝結婚したい。あなたの子を産みたい〟って言ってきて。美砂のことは、名前ぐらいは知っていた。それまで俺が付き合ったことがないタイプで、こんな太陽のような人と一緒に生活するのってどんな感じだろうって思った。それで……うーん、すまん。ダラダラと」
「構わないですよ。自分の奥さんについて話すのって、何を言っても惚気と取られかねないから難しいし──」
明人が豪の喋りを遮る。
「トロフィーワイフを欲していたのかもしれないなあ。建築の世界でちょっと有名になったから、結婚するならモデルや女優とか……でもやっぱりそっちは嫌かな」
良かった。あなたはそんなバカじゃないと、豪は言葉を吞み込む。
「だけど思わない? 誰と結婚したって、不平不満が無くなるわけじゃない。幸せでハイな頃は最初のうちだけで、あとは否が応でもうすのろな日常と付き合っていかなければならない」
豪が明人の目を見据える。
「それが人生でしょう」
明人はジョッキのふちからくちびるを離す。
「そうだな」
うっすらと笑みが戻る。それが豪には嬉しかった。
「平凡な日常を送る中で、ささやかな楽しみは、いつもとちょっと違うことをやること」
「たとえば?」
「いつもと違う道を通ったり」
「通ったり」
「いつもの定食屋で、いつもと違うメニューを頼んだり」
「頼んだり」
「いつもと違う人と会ったり」
「会ったり」
「会う以上のことをしたり」
「会う以上のこと?」
「そう」
店員が注文を取りに来た。明人がおかわりを頼もうとするのを豪が制する。
「明人さん、ここを出て、もう一軒行きませんか」
豪の不意の申し出に、明人はぽかんとしている。豪にとっては何気に勇気を振り絞っての誘いだった。
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