気が付くと社には豪ひとりだった。椅子にもたれて白い天井を見上げる。ゆっくりと慎重に、長い息を吐く。矢のように過ぎる毎日を振り返る暇もない。いつだって彼の前にあるのは消費されるきょうと予想すべき近い未来しかなかった。それでもこの数日間、豪の頭にはいつだってちらつく顔があった。
鐘山明人だ。
あの酒の席以降、一度もLINEはない。スマホが鳴るたび、期待している自分がいた。亜梨を保育園に連れて行っても顔を合わせることはなかった。
変わった男だった。豪は仕事柄、様々なタイプの男に会うと思っていたが、今にして思えば一種類でしかない。学歴、家柄、経歴などで、自分を大きく見せようとする輩ばかりだ。しかも金の話しかしない。自信満々にきらびやかな笑顔を見せるものほど虚業家だった。多くの人はたやすく騙される。鏡の前で人を油断させる練習に余念がない者たち。やれ、「〇〇で連日、億の金を動かしてきた」、「△△とはむかしからの友達で」、「バックに××が付いている」。多少の肩書、経歴詐称は当たり前。「アメリカの大学でMBAを修得した」というのでよくよく訊いてみれば、豪と同じ学校だった。「何期生ですか?」と訊ねたら、「いつだったかなあ。ずいぶんむかしのことだから」と返された。「僕も少し知っているんですよ。ランドリエ教授の講義を受けたことがあって」と架空の名前をでっち上げたところ、「懐かしいねえ」と、男は異様に白い歯を剝き出しにした。
リア充パーティーと人脈アリバイのフェイスブックにはあきあきだった。
鐘山明人は浮ついたハイソ・トークとは無縁だった。男の酒席にありがちな、ヤッた女の数を競ったりする下ネタもなかった。他人サゲ、自分のことを水増ししない男に会ったのはいつ以来か。正面に見据えた、くちびるの艶が目の中に浮かぶ。
豪は時計を見る。少し考えてからパソコンをシャットダウンした。
四谷の居酒屋「六甲」の縄のれんを潜ると、前回と同じ奥のテーブルで、やはり前と同じように赤ら顔の髭面が鎮座していた。同じ店で初めて会ってから一週間が経過していた。豪は混んだ店内をかき分けて、男の正面に腰を下ろした。
明人が当たり前のように言う。
「待ってたよ」
店員が豪におしぼりを差し出す。
「中生」
「おや」
明人はにやにやしながら注文する。
「俺も」
店員がビールジョッキを持ってくるまで、豪はおしぼりで顔を拭きながら目を合わせないようにした。平静さを装いたかった。
ふたりの前にビールがふたつ並ぶ。豪がジョッキを掲げる。明人もそれに応える。
「乾杯」
明人は快活に喉を潤す。対照的に豪は表情を崩さない。ビールを一口やると、真一文字にくちびるを結んだままジョッキをテーブルに置いた。
店内は賑やかで、はしゃぎ声も泣き言もここでは均一だった。黙っているのは自分たちだけだった。
訊くなら今しかないと豪は思った。
だけど何と訊ねたらいいのかわからなかった。
「我慢できなかったんだよ」
明人はにこやかに話す。あの日と同じように。
笑うと細く、小さくなる目を、豪は見ていた。なすすべもないような気がした。この感情に名前を付けるとしたら、たったひとつしかない。でもそれを認めるのが怖かった。
「ゲロ、吐きそうで。これを何で堰き止めようか。で、目の前におたくのくちびるがあったんで」
「あったんで」
「つい」
「つい? だから……したと?」
「我慢できなかったんだって」
「おい!」
つい声を荒らげたが、まわりは誰も気にしていない。明人は歯茎を剝き出しにする。これは何だ。照れ笑いでごまかそうとしているのか。豪は声を潜める。
「あなたがしたことはきょうび犯罪だぞ。暴行罪だ。わかってるのか」
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