運命のうねりが書かれている
三宅 中巻が出た時の新聞の広告だったと思います。池澤さんが、「この中巻の若菜のために『源氏物語』があるといっていい」というコメントをされていて、“えー” っと、思ったんです。そのおもしろさというのは?
角田 現代でいう、小説のおもしろさとか物語のおもしろさが、その「若菜」上・下巻にはぎゅーと、詰まってるんです。私は今、この訳をやる他に小説は書いていないんですが、エッセイや書評を書いたり、あといろいろ雑事があるんですが、この「若菜」をやっている時だけはおもしろすぎて、何にもしたくなかったくらい。「メールもやめて!」って思うくらい、本当におもしろかったです。
三宅 のめり込んでいく感じ?
角田 そうなんです。話が“ぐわんぐわん” 回っていく中に、自分も入っていく感じなんです。何がおもしろいんだろうな、と思った時に、上巻では、あんまりそういうことはなかったんですね。上巻では、運命というものが決っていた。決まっている運命の中で、それぞれがあきらめて、その運命を受け入れるような印象があったんです。「若菜」のおもしろさというのは、もし、このことがなければ、この気持ちにはならなかったし、この気持ちにならなければ、次のこの出来事は起こらなかったという、何か私達の意思と関係ないところで、そして光源氏もそれはどうにもできないところで、偶然なのか必然なのか、どちらかわからないままに、とにかく、巻き込まれてしまう。
例えば、私は今日、朝9時の新幹線で京都に来たんですけれども、もし、それに乗り遅れて、10時の新幹線に乗ってしまったら、そのために起こる出来事ってあると思うんです。そのために逢った誰か。そのために聞いてしまった話。その新幹線に乗ったために狂った何かが、別のことを起こす。別の扉をあけてしまう。その扉から何かが出てきて、そこでまた感情が動いて、別の何かが動いていくという、運命のうねりみたいなものが書かれていて、何がおもしろかったというと、そこがおもしろかったかな、と思うんです。
三宅 角田さんの小説もそういうところがあって、『八日目の蝉』とか、自分も追われていくような気持ちになって、はらはらしていく。読んでいて、そういう感じがあります。その角田さんが引き込まれると、おっしゃるのは、これはなかなかのことかもしれませんね。
角田 そうですね。
三宅 中巻は光源氏の歳でいくと、いくつぐらいから?
角田 そうですね。三十過ぎから亡くなるくらいまで。五十前後で亡くなると思うんですけど。実際には描かれていませんけど、出家を決意するところまでが中巻です。
三宅 なかなか思い通りにいかなくなる、振り向いてくれない女性も現れる。
角田 はい。そして歳を取っていくんです。訳していてすごく興味深かったのが、たぶん、光源氏も自分が歳を取っていくなんて思わなかった。上巻の感じだと、年齢に勝てると思ってたと思うんです。けれどもやっぱり年齢、月日というものにはあらがえない。どんどん自分が老いてみすぼらしくなっていく。みすぼらしくなっていくという描写はないですけれども、どんどん弱くなっていく。それが、私には源氏が人間に戻るという印象を持ちました。
三宅 その弱くなっていくという感じは、歳と共にすごくわかります。私自身はもてなかったんですけれども(笑)、でも歳を取るっていうことは、何かある悲しさも漂い、弱くなっていくという感じは確かにあります。
角田 上巻の時は、光源氏はスーパーマンで、きらきらして、私には人間には思えなかった。思い浮かべても顔が思い浮ばないんです。輪郭もよく思い浮かばない。何か神様じゃないんですが、運命の本(もと)というようなものがあって、そこに近づく女達が、何かによって運命を狂わされていく、という印象があって、上巻では、人間離れしたものという感じしか思えなかったんです。
それが中巻にきて、どんどん歳をとっていく。そしてもらった妻も他の男に娶られてしまう。女性をくどいてもくどいても振り向いてもらえないという、初めて弱さ、思い通りにいかないことにぶつかったことで、ようやく彼に人の輪郭、顔もぼんやり見えてきて、「あー、人間になってきた」という感じがして嬉しかったです。
三宅 紫式部という作者も、そこのところを考えて書いたんでしょうか?
角田 そこが私、ちょっとわからないんです。紫式部が実際はどこで話を終わらせようとしていたのかがわからなくて。もしかして、中巻というのは、彼女は構想していなかったけれども、書いちゃったのかもしれない。自分の中では、終わっている話なんだけれども物語が暴走しているから、彼女がついていかざるをえなかった部分かもしれないです。
三宅 作者だから構想して書くものと思うんですが、今、おっしゃったのはそういうことではなくて、本人が考えるんじゃなくて、筆が進んでいくというようなことがあるんですか?
角田 たぶんあったと思います。こんな長い話にするつもりはなかったような気がします。ただ終わらせてもらえなかったのか、もう物語がどんどん進んじゃって、本人は暴れ馬に乗るように、その筆に任せてついていったのか、そこは想像がしづらいんですが。ただ中巻になって、作者は人間を書き始めた、とう印象を強く持ったんです。上巻ではもっと別の何かを書いていた。中巻になって、人間を書くことに興味が向いたという印象を非常に強く受けて、そして人間を書く中に、光源氏を人間として捉えたという感想を持ちました。
三宅 たぶんそれは、紫式部本人が、説明している訳ではないので、読み手の方の想像になると思うんですが、作家である角田さん自身が考えると、どうもそうではないか、という。おもしろいですね。
角田 おもしろいですね。こういうのって想像するしかないじゃないですか。作者はどこまで書こうとしていたか、とか、どういうことを書きたかったのか、というのは、想像するしかなくて。たぶん、これも愛情と近いと思うんですが、読む方も、あるいは訳す方も、係わった研究される方も、みんないろんな違う解釈があると思うんです。それこそ、紫式部一人が書いたものじゃない、という説もたくさんありますし、たぶん、どんな人が、どんな解釈をしても、こうなんじゃないかな、って想像しても、全部吸収してくれる物語だと思うんです。全部許してくれる。「そうかもしれないね、そうかもしれないね」って言ってくれる。だから、こんなに読まれて、愛されて続いてきたんだな、と思うんです。
三宅 人それぞれ好みは違いますが、『源氏物語』は、違う多くの人を惹きいれる何かが。
角田 違う解釈も、違う受け取り方も全部許してくれる物語だと思います。
三宅 私、世界が小さくてすぐ放送の話になるんですけど、テレビの番組も見る人によって、さまざまな思い、印象を抱ける番組の方がいい番組だというプロデューサーがいましたね。そういう感じが『源氏物語』にもあるんですね。
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