性同一性障害を救った医師の物語④
前回からのあらすじ
耕治は外科医としての安定した日々から、一転、忙しない形成外科へと移る。そこで患者への形成外科治療に対する期待と現実の落差を思い知る。患者のために、もっとより良い形を追及するべく、美容外科医に転身することに。
第3章 大阪へ
雇われ院長
ちょうどそこに、大阪で美容外科をやらないかという話がきたのである。週一〜二度、アルバイト勤務医として働いていた他院の関係筋からの話だった。
雇われですから色々と制約はあるのはわかっていましたが、バイト先の関係筋の経営 あり、仕事のしやすさについてはわかっていたので、いずれ自分が本格的に開業するときの良い経験にもなると考え、すぐに引き受けました。その頃の私はもっと自由に美容外科の手術ができるならどこにでも行こうと考えていて、給与や待遇はどうでも良かったのです。
常勤先の院長のちょっとした嫌がらせを受けてもいたので、ちょうど去りどきでもあった。 妻と二人の息子を東京に残し、耕治は単身、大阪へ発った。 一九九二年四月、大阪の難波に「Sメディカル・和田美容外科」が開院、雇われではあるが、 自分の名を看板に掲げたクリニックの院長となった。 東京での麻酔科研修を含む形成外科と美容外科を併せて、すでに一〇年ほどの経験を積んでいた。
こうして、たまたま大阪で仕事をすることになったことが、のちに自分の運命を大きく変えることになるとは、当時の彼は夢にも思わなかった。 初めのひと月くらいはまだ住む所も決まらず、耕治はクリニックに寝泊まりしていた。やがて勤務先の近くに部屋を借り、一人暮らしに慣れると、時折は夜のミナミの繁華街を出歩くようになった。浪人の最後の年から数えても約一五年ぶりである。なつかしくもあり、より派手に様変わりした夜の街並みは物珍しくもあった。
運命の出会い
そんなある時、ミナミの周防町筋のビルの二階にあるブタの看板のお店が目にとまり、 不思議と気になって入りました。冗談酒場(パブ)と書いてるだけで、何の店だかわかりません。何だかわからないが面白い所なのだろうと中に入ったら、そこは私が初めて見たニューハーフショーパブでした。この店との出会いが、のちに私の運命を大きく変えることになったのです。
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