脳内経験のススメ
からっぽな頭からは、どんな言葉も生まれない。
脳の「水がめ」を満たすには、経験が必要だが、実体験だけでそれを埋めるのは、無理がある。行き当たりばったりの経験は、痛い目に遭う可能性も高いし、そもそも時間がかかる。
というわけで「脳内経験」である。
「脳内経験」は、「あらかじめ蓄積を目的とした経験」である。
「告白したら、実は自分の親友とすでに付き合っていた」
「旅先で置き引きにあう」
「転んで骨を折る」なんて痛い思いはできれば避けたいものだが、それでも人生において有用な「経験」になっている。いつか役に立つことを信じて「脳内データベース」に収納しておけばよい。
(嫌でも記憶に残るものだ)  
ところがぼくらの日常的な「経験」の大半は、そんなにドラマチックなものではない。取るに足らないことからできている。
例えば、授業で学生に「今日ウチ出てから学校に着くまで何を見た?」という質問をしてみる。
「電車を見ました」「コンビニでおにぎりを見ました」などと、しどろもどろに答える。それは見たんじゃない。目に入っただけだ。つまり何も見ていない。
見ること、聞くこと、感じることすべては「経験」である。しかしとるに足らないことは記憶されることもなく、意識すらされない。
(彼らに限ったことではないのです。ちなみに2日前のお昼ご飯、何食べました?)
先に書いたように、「経験」は記憶されなければ蓄積されない。つまり「脳内デー タベース」の拡充にはつながらない。その意味では、とるに足らないことをあっさりスルーさせてしまうのは、はなはだもったいない。
逆に「脳内データベース」の拡充のために「経験」の蓄積を望めば、どんなことでもすすんで記憶すればいい、ということになる。
別人格ごっこ
またしても昔話ですみません。しかも高校生の頃のことである。
ぼくは中高6年間同じ男子校に通っていたのだが、1限目の開始時刻(確か8時30分)に変更がなければ乗る電車(確か6時45分の急行)も乗る市バスも、風景も、人の様子も毎日同じようなもの。それが数年にも及ぶとさすがに飽きてしまっている。
ある朝、何をどう思ったかその男子高校生は、「ぼくは昨日、日本にやって来たば かりのアメリカ人観光客だ」と思い込んでみた。その別の目を通して見ると、退屈な 日常の風景も違って見えるかも、と思ったらしい。
たまたまの思いつきは、想像以上に新鮮な体験になったことを覚えている。
電車の窓から見えるありふれた畑も、何の作物のものなんだろうと興味がわく。
(日本ではこの季節どんなものが採れるのだろう?)
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