統計は解釈にすぎない
新しい論点を加えましょう。さきほど福島第一原発観光地化計画の話をしました。福島はこれから長い間、低線量放射線の健康被害に関する議論に直面することになるはずです。そしてみなさん、そういった健康被害の実態は未来になれば確定すると考えている。けれども、ぼくはそう思いません。なぜならば、それはじつは科学というより文学の話だからです。
どういうことでしょうか。たとえばチェルノブイリでは、事故直後に事故処理作業員(リクビダートル)が三三人死んだことが判明しています。これは疑いようのない事実です。政治的判断も入り込みようがありません。
では被害者が三三人だけかといえば、むろんそうではないですね。後遺症で病気になったり死んだひとも多いと言われています。しかし、では結局のところ健康被害を受けたひとは何人なのでしょうか。そうなってくると、突然いろいろな説が出てきてよくわからなくなります。
数千人というひともいれば、数十万人だというひともいる。事故から二七年を経て、データはきちんとある。にもかかわらず、なぜそんな振れ幅が現れるのかと言えば、放射線の被害というのは実は、原爆で命が失われるのとは異なり、長い時間の中での統計上の変化としてしか観測できないからなんですね。そしてそのかぎりにおいてさまざまな解釈がありうる。
たとえば、事故後に小児の甲状腺がん発症率が何%上がった、という統計が出てきたとする(実際にそうです)。それは科学的なデータです。けれども解釈はいろいろありうる。
たとえば、それは実際には患者が増えたのではなく、事故をきっかけにそれまでとは異なる精緻な調査が行われるようになったので、いままで拾い上げられていなかった事例がカウントされるようになったということなのだ、という主張がありうる。これはこれで整合性がある。少なくとも、素人がちょっとネットで調べてみましたという感じで反論できるものではない。
科学的なデータが出揃っても、それだけでは被害者数は確定しないのです。
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