豪は出入り口に縄のれんが掛かった居酒屋「六甲」の奥のテーブルで、ぼさぼさの髪と髭面の赤ら顔を見つけた。男は豪を見るなり、中ジョッキを掲げる。挨拶のつもりらしい。狭い通路にもサラリーマンが犇めいている。豪は人波をかき分けて、破れた丸椅子に腰を下ろした。
「遅れました」
「いやいや、ようこそ~。きょうはアリちゃんパパと飲むのを楽しみにしていたよ~」
店員が注文を取りに来たのでウーロン茶をお願いした。
「あら、飲まない?」
「車なんです」
男はつまらなそうな顔を隠さなかった。
「じゃあ食って。ここは何でも安いし、美味いから」
ポテトサラダ二八〇円、もつ煮込み三〇〇円、ニラ玉子三五〇円など、壁のメニューはどれも黄ばんでいた。まわりは喫煙者も多い。豪が普段見かけない客層だった。
ウーロン茶とビールで乾杯する。男は飲み干すなりゲップをした。
「おかわり!」
笑うと前歯と歯茎がむき出しになる。これは自分でも「憎めない笑顔」だとわかっているなと豪は思った。
「こうやって夜飲みに出るのは久し振りなんだ。保育園に光を預けている間も、自分の仕事だけでなく、家事とかやらなきゃいけないし。きょうはめずらしく妻が早めに帰ってきたから」
男はよほど嬉しいのか、唾を飛ばしかねない勢いだ。
豪は曖昧に頷く。どこまで立ち入って訊いていいのかわからなかった。
「アリちゃんパパは──、えーっと、何て呼んだらいい?」
豪はアタッシュケースの中を探る。
「あ、いいよ。飲みの席だし」
豪は名刺を突き出した。AZ Option CEOの文字に、男は目に力を込めた。
「ありま、ごう。しーいーおーってことは社長さん? こんなに若いのに? すごいなあ」
豪は謙遜しない。
「何の会社なの?」
「ファンドマネージメントです」
男は少し考えてから、ふうーんと漏らした。自分とは遠い世界なのだろう。
「あれかい? トレーダーとか、ディーラーってやつ?」
「合っている部分もありますが、合っていない部分もあります」
豪はこの手の誤解を受けるのに慣れていた。が、一緒くたにしないでほしいと常に思っている。トレーダーやディーラーは一発当たることがあるかもしれないが、運用に必要な知識や見識はほとんどない。自分は競馬の騎手だが、あちらは万馬券を夢見る素人のようなものだ。
「俺は──、あ、名刺ないんだった」
男はよれよれの財布を開いて、中を覗き込む。チェーンのラーメン店のクーポン券がひらひらと落ちた。
「俺は鐘山。カネはマネーじゃなくて、〝あの鐘を鳴らすのはあなた〟の鐘。山はマウンテン。下は明人。明るい人。本当は違う。〝名は体を表さず〟って言うじゃない」
自虐めいた笑みをこぼす。さっきまでとは微妙に異なる笑顔だった。
「鐘山さんのお名前、耳にしたことがあるような気がします」
「いや、そんなたいした」
鐘山明人は形ばかりの謙遜を見せる。
「それより! 有馬さんは偉いね! 社長さんなのに娘さんの送り迎えをして」
「朝だけです。夜は仕事でどうしても遅くなるので」
「なるほど。それでも感心だよ」
「鐘山さんは光くんの送り迎えだけでなく、育児も家事もされているんですね」
「なんで知ってるの!」
「いま自分でそう仰ったじゃないですか」
あ、そっかと明人はわざとらしく頭を搔く。本気で言ったのか。ボケたのか。ちゃんと話してからはまだ数分のため、豪は判断しかねた。
「しょうがないのよ。俺は家でやる仕事だから。家にいる者が家事とか子どもの面倒とかやったほうがいいと思うし。妻はまあ忙しい人なんで」
「奥様は、何を?」
「都議会議員。有馬さんのような高額納税者のおかげで生活しております」
明人はテーブルに手をつく。
「鐘山……下の名前は?」
「東雲美砂。妻は俺と結婚しても旧姓を通している」
「しののめ、って、東の雲ですよね」
「そう。知ってるの? あいつもそんなに有名になったのかな」
日頃テレビを観る暇がない豪でも名前と顔を知っていた。少し前から名を売っているタレント議員だ。選挙のとき以外にも区民ホールで講演会を開いたり、駅前で演説をしたりしているのを見かけたことがある。年齢は四十ぐらいで、わりと美人だ。一躍名前が全国区になったきっかけは都議会の一般質問中に「子どもを産んで太ったな」などといった野次が飛び、「それはセクハラですよ、ハゲちゃん」と返してからだ。それ以来、美砂のことを「キレイすぎる都議」ではなく、「キレすぎる都議」とマスコミが取り上げるようになった。豪は思う。そうか、あの女の夫が、いま目の前にいる自分よりふた回りぐらい上のしょぼくれたおじさんなのか。
「東雲さんは、おうちでもキビシイ感じですか」
うっかり口を滑らせてしまった。しかし明人はニコニコしている。
「あのまんま。家庭内では野次など絶対に飛ばせない、永久政権を確立している」
これには豪も噴き出してしまった。
「そっちはどうなの? 奥さん優しい?」
豪はうーんと考えたふりをする。教育方針だけでなく家具のレイアウトに至るまですべてまなみの言いなりだ。尻に敷かれておけば家庭は円満だし、実際悪くない。家のことは彼女に任せて、自分は好きなだけ仕事に打ち込める。「威張っている男でもハイハイと聞いているふりをしてうまく掌で踊らせればいい」という、賢しらな女の常套手段を、豪は逆手に取ったつもりだった。
「まあまあですかね」
「いいなあ」
明人は本心から感嘆の声をあげているように見えた。
「今夜は飲むぞ! おかわり!」
その後は明人の妻に対する愚痴を一方的に聞くことになった。顔を出さなければならない地元町内会のイベントがないたまの休みの日に、昼寝を含めて十五時間以上、妻を寝かせてあげていたときのこと。明人はその間洗濯を二回済ませ、光にご飯を食べさせ、公園に連れて行き、買い出しをし、寝かしつけまでしていた。しかし美砂は夕方前にむくっと起き出すと、台所を視界に入れて突然泣きだした。
「洗い物が残っている!」
光に作ってあげたチャーハンの後片付けをしていないことにキレ出した。昼寝中の光までその怒号で起きて泣き出した。明人は目の前で号泣するふたりになすすべもなく、「この家は地獄か!」と頭を抱えた話など、豪には想像がつかなかった。自分の家と全然違う。
「これがねえ、ウソ、大袈裟、一切の脚色なし。余裕がないんだろうね。議員さんは毎日がハイプレッシャー、ストレスフル」
「鐘山さんは、ご自身の仕事をする時間はあるんですか」
「正直、ないね。独身のときは一日二十四時間、フルに自分の時間として使えた。いまはそのときの三分の一以下かな。好きなだけ仕事ができる人が羨ましいなあと思うときもある。数年前の自分もそうだったのにね。妻から〝子どもが欲しい。あなたの邪魔はしない。お互いに自分の仕事をしましょう〟って言われてホイホイ乗ったらこのザマで」
家政婦みたいだなと豪は思う。無論口には出さない。
「有馬くん、都合がいい家政婦じゃないかって思ったんじゃない?」
「いえ、そんな」
「顔に書いてあるよ」
明人は笑う。いつの間にか、「有馬さん」から「有馬くん」に変わったが、気にならなかった。むしろ心地良かった。
「妻に言ったことがあるよ。〝産んだのは美砂。育てているのは俺。家事も俺〟。でもあんまり言いすぎるとまたキレられるからね。〝家事を完璧にやっているみたいに言うな〟って」
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