昭和の終わり

【第4回】2019年、人生に絶望したトリコは、酔っ払った勢いから、睡眠薬をまるごとひと瓶飲んでしまった。夢のように、91年に解散した伝説の2人組ユニット「ドルフィン・ソング」が甦る。彼らはトリコの青春のすべてだった。だが、死んだはずのトリコは1989年の渋谷で意識を取り戻した。やがてバブル真っ盛りの街中で、一人のオジサンが声をかけてきて……。

4 昭和の終わり

 日本で昭和に生まれ育った以上、忘れようがない。

 一九八九年一月七日土曜日、昭和天皇が崩御した。

 しばらく前から天皇は体調を崩し、下血が続いていた。重篤な状態が長引き、全国各地のイベントが取り止めになった。日本中で自粛ムードが蔓延していた。よく覚えているのは、井上陽水の出演した車のCMで、「お元気ですか~」の声が口パクに変わったことだ。

 テレビが何日にもわたって昭和天皇について、モノクロの回顧映像を垂れ流すため、レンタルビデオ店が大忙しだった。BSやCSといった多チャンネル時代はこれからずいぶん先だ。

 私も学校が休みになり、遊びに出かけたが、どこも閉店だった。思い出した。新宿に行ったら、アルタの電光掲示板が消えていたっけ。

 だけど、そんな懐かしさに耽る余裕はなかった。

 私は渋谷のど真ん中で、正真正銘のひとりぼっちだった。

 いつもの私だったらパニック状態になっていただろうが、あまりの想像圏外に投げ込まれたせいか、「驚いていたって仕方がない」と、それほど時間もかからずに、あきらめの境地に達した。人はビックリしすぎると、脳みそが一回転してしまうようだ。

 私はとりあえず、空腹を満たそうと思った。そしてこれも、いつもなら絶対にできるわけがないのだが、逆ナンをすることにした。何でだろう。「この世界なら平気だ」と思えたのだ。

 人が少ないとはいえ、一時を回るとタクシー乗り場は長蛇の行列で、そこから外れた通りを行くと、何人ものオジサンたちが行き交う車に向かって、これ見よがしに一万円札を突き出していた。〝釣りはいらないよ〟という意味だ。今となっては信じがたいが、八九年当時、夜飲んだ後に、タクシーに乗るのはひと苦労だった。どこの会社の新人も、深夜のタクシーを捕まえることが、いちばん重要な仕事と言っても差し支えなかった。

 万札を振り翳す人の群れの中でも、とびきりうだつが上がらなそうな中年に、勇気を振り絞り、声をかけてみた。

「すいません、財布を落としてしまったようなんです。お金を貸して頂けないでしょうか?」

 丸いフレームの眼鏡をかけたオジサンで、ガサツそうだが人は好さそうに見えた。ハゲ散らかした頭部に、丸々とした顔。いかにも欲望剥きだしなのだが、それなりに男を見てきた私には、かえって裏表がないように思えた。

「お嬢さん、時間あるの?」

 どこかで見たことがあるような気がしたが、オジサンは下卑た笑みを浮かべて、ニコチンで焼けた歯をニヤ~ッと見せつけると、「じゃあ飲みに行こうか!」と、私の手を曳いた。

 隠れ家のような店で、個室で私はオジサンとふたりで話をした。「いくつなの?」「何をしているの?」と、質問を浴びせてきたが適当に答えた。私が何歳に見えたのかわからないが、

「なんかきみ、いいよね~。変わった格好をしているし。ボクからするとね、最近の女性のファッションとか、皆目見当がつかない。あ、ケントウと言ってもギルバートでもデリカットでもないよ!」

 ひとりで言ってひとりで笑っている。私は聞き流して、食べることに夢中だった。

「こう見えてもボクはエラくてね! きみひとりドラマに出してあげるのはカンタンだよ。だからお互いに、腹の内を見せ合わない? これがほんとのカンタン相照らす!」

 くだらない駄洒落が止まらず、苦笑いを浮かべるしかなかった。

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