経験資本主義
前回は、『コミュニケーション疾風怒濤時代〜挫折篇』をお届けした。
初めて「ひとりでコピーを書いてみろ」と言われて、やる気満々で取り組んだものの、お題は調理用ソース。料理などまったくしたことがない23歳の男には、相当厳しいものがあった。
多くの文字数を費やして情けない告白をしたのには、もちろん理由がある。
自分が人や社会を何もわかっていないという事実に生まれて初めて直面し、挫折と失望の果てに緑色のウンチである。コミュニケーションの会社に入っておきながら、 コミュニケーションとは何かも方法も知らず、それを考えるもととなるはずの頭の中の「何ものか」も、スッカラカンのままだった。
苦労やしんどいことは大嫌いだが、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」という先人 の教えは、あながち意地悪なアフォリズムではなさそうだ。もちろんぼくはあまりに いろいろなものが足りなかったので、わざわざ買わなくても苦労はもれなくついてきた。その苦労のおかげで、自分が何も知らないということを知り、知らなきゃ人生お話にならないことを知った。
今だからこそ思えるのだが、人生の駆け出しの頃にいろいろな欠落や不足に気づか せてもらえたのはありがたかった。そしてその欠落と不足は、「経験」のことだった。 ぼくの焦燥はいわゆる「経験不足」に他ならなかったし、事実「経験のなさが恨め しかった」のだ。とにかく大急ぎで「水がめ」に「経験」を貯め込まなければならないと考えた。スッカラカンの辛さが骨身に沁みていた。
「(何事も)経験(という)資本(あってのものだよ)主義」はこうして生まれた。
脳内データベース
「経験」を「水がめ」に貯め込むと書いてきたが、もちろん頭の中にそんなものがあるわけがない。
脳(「海馬」や「大脳皮質」と呼ばれるところらしい)に「経験」の記憶を蓄積す るのである。
(脳の海馬や大脳皮質と呼ばれるところらしいが、門外漢ゆえあくまでもイメージと いうことでご勘弁)
それを収納して蓄積する倉庫のようなものを、ぼくは「脳内データベース」と名付けた。それはかつて枯渇に悶え苦しんだ「水がめ」なのだと思う。
ぼくらはオギャアと生まれてからずっと、「経験」を積み重ね蓄えてきた。
泣くことを「経験」し、笑うことを「経験」し、ハイハイを「経験」し、立って歩 くことを「経験」し、言葉を「経験」し、さまざまな人との出会いを「経験」し、喜 びを「経験」し、痛みを「経験」し、そうして生きてきた。もしそれらが記憶され蓄 積されていなければ、成長というものはなかったはずである。
その後数えきれないほどの「経験」を蓄積して現在値がある。後天的に獲得したものは、すべて「経験」のおかげと言ってもいい。「経験」がぼくらの成長分であるとも言える。 つまり「脳内データベース」の量とは、現在の「自分の量」なのだ。
「脳内データベース」が貧弱だと、 どう考えても発想も貧弱なものにしかなりえない。脳内データベースの拡充には「経験」を蓄え続けるしかないのである。
(「脳内データベース」の重要性は、具体的には読み進めれば理解してもらえると思う。ここでは用語としての説明だけさせてください)
経験はまるでハプニングだ
いわゆる「経験」とは言うまでもなく、日常生活、長い目で見ると人生において、 能動的にも受動的にも、わが身に起こること。
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