Y・Oへ 短い間だけど楽しかった
ʼTis better to have loved and lost
Than never to have loved at all.
── Alfred Lord Tennyson
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はじめてきみを見たとき、懐かしいなって思ったんだ。ずいぶんと長い間会っていなかったけど、どうしていたの? って、そんなことを考えていた。
ほら、きみって全然パパらしくないっていうか、いや、すごくいいパパなんだけど、外見はそんな風に見えないし、浮いてたじゃない? 短パンで保育園の送り迎えをしている父親はきみだけだった。どう見ても公務員ではないし、良く言えばワイルドっていうか。そうだね、無精髭を生やして、キャップから長い髪が溢れて、夏はサングラス、それ以外の季節はゴーグルで。他の親や保育士と比べてもインパクトが強かった。
僕の一目惚れだって? よしてくれよ。先に好きになったのはきみのほうだろ。その後、深みに嵌まっていったのは、僕のほうかもしれないけど……。
でもまさかあんな風になっていくなんて、あのときの僕は思いもしなかった。
もう一度人生をやり直せるとしたら? 仮定の話には答えられないな。仕事柄か、そう答えてしまう。
そうだね、今度こそ幸せになれる方向へと持っていけたらと思うよ。どうしたら正しかったのか。正解がなかったとしても、周りの人を泣かせたり、悲しませたりする回数が減るように、少しでもマシなほうに行けたらと願いたい。
いいや、これだけは言える。きみに会ったことは後悔していない。きみと会っていなかったら、僕は自分の人生を生きないまま終わっていただろうから。
有馬豪の一日はその日も慌ただしく過ぎようとしていた。GW明けの月曜日、いつも通り朝五時に起床し、前日の株価をチェック。シャワーでまだ眠い体を起こし、妻のまなみによる朝食を摂った。
「料理教室で教わったオーガニックのヨーグルトなの。買ったものと全然違うでしょう」
そう言われてもわからないが、無難に返事しておく。ねぼすけの亜梨がミッフィーのぬいぐるみを胸に抱きながらテーブルにやってくる。
「パパ、おはよ」
「おはよう、亜梨」
五歳になっても甘えん坊だが、まなみは着替えを手伝おうとしない。
「何でも自分でやらせることが大切なの」
まなみはそう言う。「まだ小さいじゃないか」と豪は喉元でぐっと堪える。何か言おうものなら、どうせ眼差しに優しさを湛えたまま、反論してくるに決まっている。
早く会社に行きたいのに、亜梨の支度を待たなければならない。着ていく服が気に入らないと、自分専用のクローゼットを漁って、スタンドミラーの前で服をとっかえひっかえしている。まなみから聞かされたが、同じライオンクラスの女の子と張り合っているらしい。もちろん好きな男の子をめぐる争いだ。この歳でも、女は女だ。豪はやれやれと思う。
結局、家を出たのは八時過ぎになった。
「いまどきの父親は子どもの送迎ぐらいやるべき。積極的に育児に参加してこそ、社会的な地位を持つイケダンよね」
三月までまなみが保育園の送り迎えをしていたが、彼女の鶴の一声で、豪が朝の送りを担当することになった。どこぞの受け売りだろうが、子育てに関してはなるべく対立しないようにしている。保育園は目と鼻の先にある。園庭がある認可保育園で、亜梨は三歳から通っている。百名ほどの園児を受け入れているが、港区という場所柄のため、大使館に勤務している外国人の保護者も多く目につく。教育熱心な親たちが、有名大学付属校への進学率が高い近くの公立小学校に我が子を入れるために、わざわざ引っ越してくると聞く。
豪は亜梨が公立でもいいと思っている。やはり近所にある、名門と呼ばれるインターナショナルスクールでなくてもいいではないか。夫婦ともにネイティブレベルの英会話能力が必要なので、まなみはベルリッツに週三回通っている。それでも口を挟むのは控えている。「あなたは亜梨が可愛くないの?」と、まなみから問い詰められるのがおちだからだ。
保育園に亜梨を預けた後、マンションの駐車場に戻り、BMWで渋谷にある会社を目指す。豪が出社した朝の八時半には、タイムカードを設けていないにも拘わらず、五十名の社員のうち、ほとんどが出社していた。社長の豪が姿を見せても振り返ることなく、各自でメールやネットをチェックしたり、トレーダーと打ち合わせをしたりして、売買銘柄を指示していた。豪もひと通り済ませると、社内ミーティングに入った。運用商品を売り込む営業部の部長、運用商品を企画して顧客に説明する商品企画サービス部の部長、そして今年の唯一の新卒である瀬島と自分の四人だ。
瀬島隼人は大学在学中に証券アナリストになるための一次試験の三科目を一度にクリアした人材だ。大手の信託銀行を蹴って、豪が社長を務めるAZ Optionに来てくれた。ヘッドハンティングしたふたりの部長の経験に基づく意見を学ばせたいと考えている。会議は一時間が上限。ファンドマネージャーという職業上、売買の報告と意見交換が必須のため、どうしても会議が多くなる。回数は減らせないにしてもダラダラと延ばすことは避けていた。
十時には来客の対応が一件。その後は社員から相談を受ける。社長室を設けず、仕切りすらなく、社員たちとの間に距離を作らないようにしている。
昼にはランチを摂りながら懇意にしている老舗の投資顧問会社の重役と意見を交換した。
十三時半には瀬島を運転手にして投資先の会社を訪問。経営状況をチェック。
十七時に会社に戻り、社員からその間あったことを聞き、海外市場のチェック。あともうひと踏ん張りとばかり、コンビニで買ってきたスイーツやパンを片手に従事する若い社員が目立つ。
十九時、投資候補の業績と予想株価の計算。この日はサウジアラビアとイランが地域の覇権争いのため自爆テロが起こり、多数の死傷者が出た。株式市場では日経平均株価が前日比三〇〇円安。外為市場でも中東主要国の株は売られ、安全資産の米国債買いが進み、債券利回りは軒並み低下した。めずらしくないこととはいえ、豪は溜め息を漏らした。
あっという間に時間が過ぎる。残業は控えるように伝えているが、まだ十名ほどパソコンと向き合っている。スマホが目に入る。LINEが来ていたようだ。送り主の名前を見る。「ライトパパ」とある。
──先にやってるよ!
ビールを飲むイラストのスタンプが目に飛び込んでくる。豪は記憶を遡らせる。五日ほど前の朝のやり取りを思い出す。
「今度飲みに行こうよ。ここらへんは高い店ばかりだけど、四谷にまで足を延ばせば気が置けない居酒屋もあるし。お互いイクメンとして妻の悪口を言い合わない?」
そんなことを言われてLINEを交換したのだった。屈託のない笑みとともに。
——第2回「それって、都合がいい家政婦ってことじゃ……。」は1月23日公開予定です!