頭の中はからっぽ! コミュニケーション疾風怒濤時代~挫折篇

「オマエ一人で書いてみろ」。そう初めて言われたのは、調理用ソースの仕事。「なかなかやるな! タカシ」の評価をイメージして、緊張しながらもやる気満々で臨んだ。しかしタカシはやれなかった。商品のことを考えてもターゲットを想っても、表現するべきもの、伝えるべきもののかけらも頭の中には浮かんでこなかったのだ!なぜか頭の中に、からっぽの「水がめ」の図が浮かんだ……。 話題の『伝わるしくみ』から特別連載!


『伝わるしくみ』山本高史
マガジンハウス

コミュニケーション疾風怒濤時代~挫折篇

 入社して最初の(というか退職までの)配属先はクリエーティブ局だった。広告を制作する部署である。ここでぼくの人生の大筋は、本格的に決定されてしまったようだ。

  初めての職場というものは、当時大部屋と呼ばれていたコピーライターばかり30人くらいいる部で、あとはいろいろ事務雑務をお願いする派遣の女性(実際に当時のぼくよりかなり年上、美人)2人。それほどの多くの年長者たちと時間と場所を共有するのは初めてのことで、どう振る舞っていいのかわからないような日々だった。

 上司や先輩からは「コピーライターが無理だと思ったら言えよ。この会社には他の部署もあるからな」とか「オレらは下を育てようって気はないから」などと、2018年なら明らかにパワハラの扱われ方で、それでもあまり苦にならなかったのは体育会出身だからという理由ではなく、この働き方改革の時代では言葉を選ばなければならないが、それでも吐露すると、その職場には「愛」があった。

 事実誰かが異動して部を出て行く時には泣きながら送り出したし、誰かが病気になれば全員が気に病んだ。ぼくはそのような環境で寄ってたかって育てられた。
 今思えば面白いくらい怒られたし叱られた。部長には「デスクでイジイジしてないで外に出ろ。映画でも見てこい」と怖い顔で言われ、会社ってそういうもの(就業時間中に映画に行けと怒られる)なのかと混乱した。

 今でいうメンターの先輩からのアドバイスシートには、「淡々と仕事をしている姿には共感もするが、物足りない。けっ、つまんねー仕事、とか顔に出そうよ」と書かれていた。そんなもの顔に出せるわけがない。 大人たちとは話題も尺度も価値観もかみ合わなかった。ようやく気づいたコミュニケーションの困難さ、面倒くささに、悩まされ始めていた。

  当時は会社も、おそらく広告業界も今とは比べようもないくらい呑気で上機嫌な時代だったが、バブルだろうがなんだろうが、新人には浮かれているヒマはない。もともと広告に興味も知識も持ち合わせていない「コピー機ライター」である。覚えなければならないことが多過ぎた。

 メインの仕事は上司について回り現場を覚える、というか関係する人たちに顔と名前を覚えてもらうことだった。コピーのようなものを書かせてもらったことはあったが、キャッチフレーズとかそういう晴れがましいものではなく、上司の担当する新聞原稿のボディコピーを練習としてあてがわれるくらいのもの。
(もちろん採用されない)
 モーターショーの展示ブースのエンジンの説明ボードのようなものを任されたが、クライアントの技術資料をまとめるだけなので誰が書いても同じような文章となるような作業。

物足りなくはなかったが、飽き始めていた。

 そんな時期、ある日部長に呼ばれて、「オマエ一人で書いてみろ」と言われた。ある食品会社の仕事だった。同じ部にいた同期よりも先に「一人でコピーを」と声をかけられた。認められたい盛りだった。大きなチャンスだと思った。
(実際には独り立ちには程遠く、先輩コピーライターがお目付役でいて、ぼくが結果的にダメでも仕事に穴があかないようになっていた)

「なかなかやるな! タカシ」の評価をイメージして、緊張しながらもやる気満々で臨んだ。
しかしタカシはやれなかった。

  それは調理用のソースで、「お肉を炒めて絡めると、まるでレストランの味」というコンセプトの新商品だった。ターゲットは専業主婦。媒体は新聞夕刊ラテ下10段(テレビラジオ番組欄の下のスペース)。今となればそれほど難度の高い作業ではない。しかしぼくはその仕事に向き合いながら、呆然とするだけだった。

 コピーを書くというのが仕事なのに、とにかくコピーが書けない。何も出てこない。それどころか考えることすらおぼつかない。ここまでできないか! と驚いた。コピーライターとしては素人にうぶ毛の状態である。だから技術的にできないのはしようがないと、逆に開き直るだけの厚顔さはぼくにもあった。イチローだって初めてバット持った時にボールを打ち返せたわけがない。
(当時イチローはいなかったけど)

 しかしぼくが直面したのは技術不足という問題ではなく、自分の中身が空っぽだという事実だった。

頭の中はからっぽ

 当時生まれて初めての一人暮らしをしていたが、料理などしない。ヒマと空腹からつくることがあったとしても、粉末ソースの焼きそばとか味も形もどうでもいい卵焼きくらいである。もちろん人につくってあげたことなどない。調理の喜びも悩みも知らない。

 23歳の男が知っていた専業主婦は母親と叔母だけだった。主婦と呼ばれる人たちが何を幸せに感じ、何を苦痛だと思うのかも知らない。どのようにお肉を買っているのかも知らない。その新商品をどんな気持ちで手にするのかも知らない。

 商品のことを考えてもターゲットを想っても、表現するべきもの、伝えるべきもののかけらも頭の中には浮かんでこなかった。

 なぜか、頭の中に「(考えるための)水がめ」があって、それが涸か れ果てているようなイメージを持った。もっとも涸れるもなにも、もとから空っぽのスッカラカンだったのだが。

 打ち合わせのたびにぼくのコピーは諸先輩にため息をつかせ、ぼくはそれの何十倍もため息をついた。
 そして何度目かの打ち合わせの次の日の朝、トイレで用便を済まして見下ろせば緑色のウンチがあった(失礼)。驚いて病院に行くと神経性胃炎ということだった。身体の正直なことに、妙に納得した。

 新聞夕刊ラテ下10段原稿を送稿し、ため息と胃炎の日々はとりあえず終息した。  
 結局決まったコピーは「いつもと同じお肉なのに、いつもと違うおいしさ。」というものだった。今見てもそんなに悪くないコピーだと思うが、それは先輩がぼくの腕を持ちペンを握らせ書かせてくれたようなものだった。

 とりあえず仕事は目の前からはなくなったが、問題はまったく片付いたわけではない。むしろ絶望的に顕在化しただけだった。

頭の中の「水がめ」のイメージ

 ぼくは頭の中の「水がめ」のイメージは長い間消えなかった。
 そこに「何ものか」が潤沢に蓄えられていれば、それを活用して十分に考えることができ、それが豊かな表現をもたらせてくれるはず。しかしぼくの「水がめ」は見事に空っぽだ。

「水がめ」は知らないことだらけの23歳の新人の、ただただ困り果てた末のなんの根拠もない想像だったが、今思っても大枠間違えてはいない。

23歳の頃を30歳になって振り返って書いたコラムに以下の記述がある。

 「学校を出て、たまたまコピーライターという職種に就き、原稿用紙とペンを与えられた人間には、他人に語るべき傷の由来ひとつなく、何を書いても口先だけの根のない言葉が連なるだけで、嘘も上手につけない自分の無能を思い知る。経験のなさが恨めしかった。自分の表現には深みも迫力もなく、一片の真実もなかった。」と書いている(『コピーライター入門』電通刊、1993)。

 本に載ることを意識して表現は多少盛ったみたいではあるが、正直な告白だったと思う。「恨めしかった」のは紛れもなく本心だったし、「一片の真実もなかった」ことに自ら失望していた。それでも、自分に考えさせくれる、書かせてくれる「何ものか」を手探りしていた。

今年こそ、伝え方の達人に! 2時間でわかる、シンプルにして究極のルール。

伝わるしくみ

山本高史
マガジンハウス
2018-09-27

この連載について

初回を読む
2時間でわかる 伝わるしくみ

山本高史

「しくみ」がわかれば、簡単に言葉にできる! シンプルにして究極のルールを、クリエーティブ・ディレクター/コピーライター、関西大学社会学部教授でもあるコミュニケーションのプロが、満を持して公開。今までいろいろな本を読んでも まだまだ悩み...もっと読む

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