〈「いだてん」第1話「夜明け前」あらすじ〉
1959年、五輪招致目前の東京。大渋滞の日本橋を通りかかった落語家の古今亭志ん生(ビートたけし)は寄席に向かっていた。その日、高座で志ん生が語り出したのは、50年前の日本のオリンピック初参加にまつわる噺(はなし)。1909年、柔道の創始者、嘉納治五郎(役所広司)はストックホルム大会を目指して悪戦苦闘していた。スポーツという言葉すら知られていない時代。初めての派遣選手をどう選ぶか。日本オリンピック史の1ページ目を飾る物語。(番組公式HPより)
まずは穴から始めようか
一年間にわたる大河ドラマをあなたが作るとしたら、物語の始まり、第一回の最初のショットとして何を撮るだろうか。
壮大な始まりにふさわしい構図は何かと、あなたは身構える。まずは広大な景観はどうか。たとえば大海原に上る朝日、満々と水をたたえた湖、雪をかぶった大連峰、闇にそびえ立つ城、はたまた、ドローンで一望する発展する都市。いや、そんな大がかりな始まりでは視聴者が引いてしまうかもしれない。たとえば一輪の可憐な花はどうだ。あるいは、現代の日常の何気ない光景から、さりげなく見る者を招くのもいい。いやいや、実写にこだわる必要はない。華麗なCGからまずはこのドラマを支える技術を見せつけるのはどうだろう。
これまで幾多の大河ドラマで、幾多の演出家が物語のファースト・ショットについて考え抜き、それぞれ工夫を凝らしてきた。では、『いだてん』の最初のショットは何だろう。
それは、穴だった。
わたしは穴にいる。掻き出される土を見上げ、こぼれる土くれを浴び、作業員の尻を間近に見ている。狭く暗い穴の底。その上を、突然何かがよぎる。なにもの?
見る者の疑問をさらに深めるように、カメラは地上に出る。走る男の白い足もと、質素な白シャツに白いパンツ。穴を飛ぶようによぎったのは、この男らしい。なにもの? 見る者の疑問をよそに「昭和34年 (1959)」とテロップが出る。石橋に向かって巨大な鉄が伸びている。「東京 日本橋」だ。ようやく俯瞰で捉えられたその光景の中で、旧式の橋はいままさに、鉄でできた新たな橋、「首都高」によってまたがれようとしている。ちょうど、穴の底にいたわたしたちを白い男が軽々とひとまたぎしていったように。
このほんの短い導入で、わたしはドラマにぐっと引き込まれた。右も左もわからぬ穴。こんな始まりは、従来の大河ドラマにありえなかった。その上をなにものかがよぎる。よぎったものはなにものか、その正体をつきとめたくなる。そうだ。わたしは壮大なものから始めたいのではなかった。新しい何かがきたときの、混乱と不安と、それを飛び越える跳躍を見たかったのだ。
ありえないと言えば、大友良英によるテーマ曲もまた、これまでの大河と全く異なっている。偉人の波瀾万丈の人生を思わせるように、華麗なオーケストレーションと美しい独奏を対比させながら、曲のテンポを劇的に変化させつつ進むのが、従来の大河ドラマのテーマの定番だった。ところが今回は、ファンファーレが鳴り止むと最初から最後まで、ずっと同じテンポを保っている。しかも、テンポを最初にリードするのはギターのシャッフル。これはまるでエンニオ・モリコーネではないか。走ること、ここからどこかに流れて行くことを駆り立てるように吹き鳴らされる口笛、誰が誰を励ますともしれぬ「う」とも「は」ともつかぬ声、まさに『夕陽のガンマン』だ。そして、大友良英と同年代のわたしにはわかるが、管で始まる導入、D→C→D→Cと変化するコード、ギターの着実なシャッフルによる進行には、『木枯し紋次郎』のテーマ曲『誰かが風の中で』の記憶も入っているに違いない。いずれにしても、これらはさすらいの一匹狼の旅路を思わせるような要素であって、壮大な偉人の歴史を表すものではない。
テンポをあえて保ちながら、リズムは地球の向こう側、サンバの熱狂へと跳躍する。この旅は思いがけないほど遠くまで行くのだ。しかしその遠くは、なんて明るい場所だろう。合唱が始まる。ただしどの声も、名歌手のソロに導かれて朗々と歌い上げるのではない。声たちは、誰もマイクの間近に立っていない。遠くから遠くへ響く声で高らかに歌うことへと、わたしでもわたしたちでもないなにものかへと流れていくことへと、聞く者をさそっている。
こんな新しい始まり方を前に、いわゆる大河ドラマの風格やらスケールやらについて論じる必要はない。ドラマを考える、新たな手立てを考えよう。たとえばPで。
「じぇじぇじぇ」=「P」?
パノラマピストルプランタン、明治の新しいできごと、新しい考え方はしばしばPの破裂音を伴って現れた。今までとは違う何かがやってきたとき、暗い口中で留まっていた息がパンと外にはじけて放たれる。なにものかわからぬ新たなものに惹かれ、その新しさを繰り返し口の中で唱えるための、ハイカラで乾いた音、P。
だから「れじゅぞらんぴーく」とフランス駐日大使から切り出された嘉納治五郎が思わず「ピッキ?」とたずねる場面を見て、このドラマはいいぞ、と思った。治五郎は英語を学んでいたもののフランス語はわからない。れじょぞらんぴーく。なにもの。そのなにものかわからない響きの中から、治五郎はPを拾い上げる。拾い上げて、つきあう。これはまごうことなく、明治の感覚、明治の物語だ。
要領をえない治五郎を大使が「カム・ウィズ・ミー」と、バルコニーに連れ出すのもいい。穴から外へ出るように、閉じた部屋から開け放たれた扉を抜け、陽光のさす外へ。それは、未だ体験したことのない、そしてまだ実現していない新しい考え、新しいアイディアに触れるのにふさわしい場所だ。
大使はさらに言う。「スポーツ」。明るいバルコニーで、「スポーツ」ということばが、Pを含むことばとして新しく響く。そしてとどめは「ペ」。平和の「へ」が破裂音と化したかのような「Paix = ペ」。ペラペラ、ペンペン草、林家ペー。Pで始まる音の中でもひときわ間の抜けた響き「ペ」。治五郎はまるで駐日大使の口から繰り返し漏れるPが嬉しくて仕方ないといったふうに言う。「あ、また、『ぺ』!」。その表情を見るうちに、わたしたちにとってあまりに耳になじみ過ぎた「平和」が、なんだか耳新しいことばとして感じられてくる。
『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」がそうであったように、宮藤官九郎はドラマの鍵となることば、それもことばの意味ではなくことばの音を、周到に配置する。今回、Pがその鍵であることは、その後の展開を見ても明らかだろう。嘉納治五郎と可児徳は、見たことのない競技、見たことのないポーズをとらえた写真を指さしながら感慨深げに言う。「スポーツですねえ」「スポーツだねえ」。スポーツ、オリンピック。Pが醸し出す朗らかな響きに彼らは耽溺している。一方、これらPを含むことばとは対極的なのが「体育」そして「肋木」だ。身体を教育する「たいいく」、身長を伸ばすのによろしい「ろくぼく」。どちらもオリンピックと同じ「く」で終わるのだが、残念ながらPを欠いている。そして「楽しくない」。
楽しくないことよりも、治五郎は、わけのわからぬPが気になってしょうがない。Pのあるものとないものでいったら、Pを選んでしまう。「おん・う゛ぁ・さぷすとにーる゛」というわけのわからない断り文句よりも、目の前の「ポスター」に惹かれてしまう。そして選んでしまう、「オリンピック」を。ああ、選んでしまった。
治五郎は夢の中でさえ、Pにとりつかれている。金策に疲れ、飲み慣れぬ酒を飲んで入院したベッドで、治五郎は失意のうちに「いだてん」の夢を見る。「足はかもしかでね、顔は象でね、優勝カップを持っとったよ」。それを聞いた可児(この場面の古舘寛治の表情は実にすばらしい)は夢語りの中から耳ざとくPを含む語を拾い上げる。「え、カップ?」。そして、まさにその語が示すものを木箱の中から取り出す。夢のカップと現実のカップ。夢と現実のあいだを跳躍するP。そこで、治五郎の発することばは、「うれしいなあ」でも「おどろいたなあ」でもない。「可児君、君という男は…こわいなあ!」。
これからPが招くかもしれない光と影が、この「こわいなあ!」のひとことに凝縮されている。本当にPを選んでよかったのだろうか。「カップ」を弾くと、コーンと手応えのないうつろな響きがするではないか。走る意志のない選手を寄ってたかって引きずり回し、ゴールへ押し込む「オリンピック」競技だって「おもしろくない」かもしれないではないか。「スポーツ」を愛するという天狗倶楽部の男どもは、ウザくてチャラくて奮え奮えとうるさくて、T.N.G.、T.N.G.、およそ競技の精神に似つかわしくないバカどもではないか。ビールをラッパ飲みする男たちに胴上げされ、諸肌脱いだ暑苦しい彼らに取り囲まれることが本当に「楽しい」ことへと結びつくのか。ドラマはまだ、Pの光と影、オリンピックの光と影のほんの一端を見せ始めたところだ。
それでもわたしは、峯田和伸演じる車夫、『坊ちゃん』の「清(きよ)」を思わせる名を持つ清(せい)さんが、路面電車(坊ちゃんは最後にこの「街鉄」の技手になった)を早回しで追い抜いていくのを見て、明治の物語がすがすがしく更新されるのを見た気になる。そして羽田のだだっ広い草っ原に、戦国の大軍でも維新の軍勢でもなく、たった十人そこそこの天狗の面々がわらわらと鍬を手に降り立つのを見て、この大河ドラマを見る一年は、いい一年になるに違いないと確信する。何もない場所から始まる噺、まるで十銭銀貨のように、ぴかぴか光るけれどまだなにものでもない若者たちの噺、オリンピック、スポーツ、そして何より「ペ」という新奇なPに惹かれて、穴から外に出るように始まったこの噺は、開催国のプライドだの経済効果だのをやたらと強調する昨今の五輪熱とは明らかに異なる何かを表しつつある。この噺なら、これからずっと付き合っていくことができるだろう。
さて、ほんの原稿用紙数枚のつもりがずいぶん書いてしまった。いちおう『浅草十二階』という一冊を物したことがあるので、このドラマのあちこちに(タイトルバックにまで!)登場する浅草十二階こと凌雲閣について書きたいことも山ほどあるのだが、それはまた別の機会に。