電気サーカス 第98回

真赤から別れを切り出されて茫然自失になった“僕”は、家族や友人を巻き込む騒ぎを起こす。一時は自殺を試みるほど落ち込んだが、働く気力が出て来るまで回復。以前の職場に復帰したが、皆の優しさに耐えきれず一ヵ月で退職してしまい……。

 医者の診断によると僕は鬱病ということになっていて、そして、鬱の患者というものには専用の病棟があるらしい。そして、仕事や人間に疲れたサラリーマンなどが、心と体を癒やしているモダンな場所なのだそうだ。
 本来ならば僕はそこに入院するべきなのだけれども、この不況のせいか、どこも満床で入る余地がないと医者は言う。
 それでも入院したいのなら、鬱だけでなく様々な病を持つ患者が入院する、もっと古典的かつオーソドックスな精神科病棟しかないらしい。
 僕は隔離された場所に入れてくれるならどこでも良かったし、辛気くさい鬱病患者に囲まれて暮らすだなんて想像するだけでもうんざりしたし、それにどうせ精神科病院に入るのなら、その精髄を体験したいという思いがあったので、異論はない。むしろ、そうした古典的な病棟の方が喜ばしいくらいであった。
「本当に大丈夫ですか? ちょっと、変わった人ばかりですよ?」
 そう医者が念を押す。随分失礼なことを言うものだと、内心おかしく思いつつ、問題ないです、ともう一度返事をした。
 そうして僕は入院した。ネットの知り合いにはそうした病院で暮らした経験を持つ人間が何人か居た。だから僕は世間の人が思うほど特別な印象は持っていなかった。けれども、やはりこの目で見たわけではない。入る前は、『カッコーの巣の上で』や、『17歳のカルテ』といった映像作品で描かれた世界を多少なりとも想像していたのは確かだ。実際のところはそれと似た部分もあったし、まったく似ても似つかぬような部分もあった。
 僕が入院したところは、病棟という言葉から想像されるよりもずっと粗雑な建物である。
 壁にはベニヤ板のような薄い板が張り付けられており、壁紙も施されないむき出しのままだった。床板はニスが剥げてざらざらになっている。窓に錆び付いた鉄格子がはまっていることさえ除けば、そのがらんとした病室の風景は、小学校の頃に通っていたプレハブ校舎とかわらない。そう思うと、郷愁に誘われる。あの頃はつらかった。今はこんな境遇だけれど、あの逃げ場のない少年時代よりはずっと楽だ。
 ベッドは、塗装の剥げた鉄パイプで出来た簡素なものが六つ並んでいる。すでに五人が生活をしており、僕が入れば満床だった。
 医者は事前に脅していたけれど、入ってみると、確かに、そこで暮らす人々は少し変わっている。
 まず僕の隣のベッドのSさんは、これはあまりコミュニケーションがとれない病気を持っているようで、まるきり黙っているかと思えば、ブツブツと独り言を言いながら部屋の中をグルグルと歩き回ったりもする。そして、限度を超えて回り続けると、気分が悪くなって倒れてしまう。
 そのSさんの一つ向こうのベッドのDさんは、ほとんど少年といっていい年頃の人物だった。普段は利発そうな受け答えをしていて、そういうときは健康な人間と区別がつかないのだけど、何かスイッチが入ってしまうと、自分が酷く殴られてしまっただとか、物を盗まれただとか、ありもしない被害を加害者の実名付きで訴えて周りを困らせた。
 また、向かいのベッドのOさんは、朝から晩まで体をゆすりながらドラゴンボールのオープニング曲のさびの部分を繰り返し歌ってばかりいる。挨拶をしても、返事をしないことがおおい。
 そして、入り口に一番近いベッドのTさんは、背筋のまっすぐとした老人で、この病室では一番まともに見えるのだけれど、突然声をあげて泣き出すことがある。家族に捨てられるようなかたちで、ここに暮らしているらしい。外で何をしたのだろう。

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電気サーカス

唐辺葉介

まだ高速デジタル回線も24時間接続も普及しておらず、皆が電話回線とテレホーダイを使ってインターネットに接続していた時代。個人サイトで自己表現を試みる若者達がいた……。

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