◆電子専売企画が不調の枝折にさらなる試練が!
有馬(ありま)との会議が終わった。その日の終業間際、枝折(しおり)は、岩田(いわた)に会議室に呼び出された。
「春日(かすが)。おまえの担当している電子書籍専売企画とBNB専売企画、ほとんど進んでいないのはどういうことだ」
声はいつもと違って大声ではない。その代わりに空気が電気を帯びたようにぴりぴりとしている。なにか致命的なミスを犯している。岩田は枝折の仕事を、そう判断したようだ。
枝折は、これまで報告してきた内容と同じ、自分の仕事の進め方を話す。そして、電子書籍専売ということが、作家のモチベーションを下げていると事情を説明した。
「やる気の問題はそうだろう。だが、いったいどんな提案をしているんだ。報告書に書いていないことまで全部話せ」
岩田は机に体重をかけて枝折をにらむ。枝折はしぶしぶ、売れるために練った数々の企画を披露した。
「おまえ、作家の持ち味を殺してどうするんだ。おまえがやっているのは、自分が売れると思っている要素を、作家に無理やり押しつける行為だ」
岩田の声は、怒りに満ちている。
「本にはそれぞれ届けるべき相手がいる。俺たちができるのは、可能な限りその全員に本を届けて、数を最大化することだ。
ベストセラーになるような、対象の広い本もある。数は少なくても強く待ち望む人がいる本もある。売るための努力は必要だが、核になる部分をねじ曲げるのは駄目だ。
そうした努力を重ねる中で、思わぬ本が売れることもある。書き続けることで作家が成長することもある。時代が変わり、人々の関心が変わることもある。
俺は本の力を信じている。だから、読者に届くなにかを持っている作者を選んだ。紙の本は売れなくても電子の本なら売れるかもしれない書き手をそろえた。
そうした作家が、窮地で絶叫したら、どんな小説が生まれるのか。作ったような原稿ではなく、魂の叫びのような原稿。俺が読みたいのは、そうしたものだ。売れるための要素を、ごてごてとつけた作品が読みたいわけじゃねえんだよ」
枝折は、岩田の叱責に身を縮めた。
自分がこれまでやっていた仕事は間違いだったのか。足元が朽ちたスポンジのようになるのを感じながら、岩田を見上げた。
「なんで、こんな小手先のことをやろうと思ったんだよ」
「五月に文芸編集部の芹澤編集長と話して」
枝折は、その時の顚末を語る。
岩田は片手で顔を覆い、やられたという顔をした。その表情の意味が分からず、次の言葉を待つ。
「あいつには、あいつのやり方がある。おまえが真似をして、そのまま上手くいくわけがねえだろう。それにな、芹澤はあのやり方で、何人もの作家を潰しているんだよ。大成功した人もいるが、失敗して消えていった人も多いんだよ」
枝折は目を白黒とさせる。芹澤は、可能な限り全ての本を黒字化したいと言った。その言葉は願望であり、実際には真逆のことをしていたのか。
「あいつもな、昔は理想に燃えた男だったんだよ。作家の面倒見もよかった。でも、社内政治に手を出し始めてから、数字ばかりを見るようになった。瞬間的に赤字でも、耐えて育てる。そうしたことができなくなったんだよ。
今のあいつは、経営陣におもねることばかり考えている。そして短期的な収益をよく見せるために、数字の悪い作家を、その将来性を見ずに切り捨てている。数字は大切だがな、理想のない数字は害悪でしかない」
岩田は、教師のような顔をする。
「その作家や作品の、いいところをどうやったら届けられるか。そのために自分や会社がなにができるか。俺は本を作る時に、いつも、そういったことを心がけている。
いいか、俺たち編集者は、あくまでも黒子だ。作家にヒントを与えられるかもしれないが、答えは教えられない。それに読者が読みたいのは、おまえの主張ではない。読者は、作者を信頼して読んでいるんだ。出しゃばりすぎるんじゃない。それが俺の指導だ」
枝折は口元を固く結ぶ。そして、これまでの打ち合わせやメールのやり取りを思い出す。目の端に涙がにじんだ。岩田は頭を搔き、枝折に言葉をかける。
「俺たちは主役じゃねえんだよ。仕事ってのはな、自分ではない誰かのためにするものなんだよ」
枝折は、岩田の言葉にうなずき、目に力を込めた。
◆信頼のシステム
畳敷きの六畳間。寄せ木細工の文机でネットを確認している。
スマートフォンが鳴った。弥生(やよい)からだ。いつもの飲みの誘いか。そう思い、電話を受ける。
「枝折、今、時間あるか? 信州で話したいんだが」
普段の軽い調子とは違い、緊迫している。いったいどうしたのだ。枝折は立ち上がり、外出の準備を始めた。
信州の座敷席。いつもの場所で弥生と会った。店は客で賑わっている。そのざわめきの中で、枝折は弥生の話を聞く。
「ここ数日、ネットの住人のあいだで話題になっている小説があるんだ」
「最近発売になった小説で、なにかそういうのあったかな」
「違う。出版社から出ている小説ではない。ネット小説だ。電子書籍がテーマになっている。小説家と編集者の話だ」
「へー、そんな小説があるんだ。面白いの?」
どこかで聞いたような話だ。自分がやっている仕事と似ているなと思う。
「いいから読め」
弥生は、自分のスマートフォンを押しつけてくる。既に二十話以上掲載されている。枝折は文字を追っていく。
読み進めるうちに寒気がした。主人公の小説家と新人編集者の打ち合わせを見て、盗撮カメラを見つけたような恐怖を感じる。
「なに、これ……」
画面を見ながら弥生に尋ねる。
「やはりそうか。この小説に出てくる新人編集者のKって枝折のことだよな。Iは電子の岩田編集長。Sは文芸の芹澤編集長。枝折に話を聞いていたからピンときた。話の中心に据えられているのは春日文庫。それで間違いないよな」
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