◆画家と弟
一階の店は電気が落とされていた。弟は客席の灯りをつけ、南雲(なぐも)を促した。
「さあ、話してもらうぞ」
席に着いたあと弟は厳しい声で言う。やはり話さなければならないか。南雲は観念して、どこから伝えるべきか考える。
「実は今後、紙の本が出なくなる。最後に取り引きしていた出版社から、そう宣告された」
呆れられるかもしれない。価値のない人間と蔑まれるかもしれない。やはり兄貴には才能がなかったんだよ。そうした罵倒が飛んできてもおかしくない。弟はどう反応するか。南雲は手に汗を搔きながら様子を窺う。
「紙の本が出なくなるって、どういうことなんだ。本って紙でできているんじゃねえのか」
南雲は、全身の力が抜けそうになる。そこからか。弟にとって、紙以外の本があるということは、すぐに思いつかないことなのか。南雲は、出版社から切られた経緯と、電子書籍専売の話をする。
「電子書籍か。読んだことがなかったから、すぐに名前が出てこなかったよ。それはどこで売ってんだ」
「アマゾンなどの通販サイトで売っているし、電子書籍専売の書店もある」
「東京とかに、そういう店があるのか」
「いや、ネット上だ」
普通の人にとって、電子書籍はそれほど遠い存在なのかと思い知る。
「それで、それはどれぐらい売れるんだ」
「紙の本ほどは売れない。紙の本が十出るところで、電子の本は一ぐらいしか出ないそうだ」
「つまり収入が大きく減るわけか」
「そうだ」
南雲は声を小さくしながら言う。
「なるほどな。出版社にお払い箱にされたということか」
「ああ」
「無職になってしまったわけだな」
「そういうことになる」
「で、これからどうするつもりなんだ」
弟は高圧的に聞いてくる。南雲は答えに窮する。この家での二人のバランスが大きく崩れたのが分かる。たとえ収入が少なくても、南雲は弟が目指していた小説家になった。その一点で弟は、兄が定職に就かないことを黙認していた。
無言のまま重い時間が流れる。その沈黙を弟が破る。
「兄貴は自分勝手だよ」
弟の言葉に顔を上げてにらむ。
「俺がやりたかったことに興味のない振りをして、ある日いきなり自分のものにする。俺に家業を継がせて、気ままに暮らす。道楽者の兄を持った弟は大変だよ。苦労だけを背負い込むことになる」
返す言葉もなかった。弟の言うとおりだった。南雲は謝罪の言葉を口にしようとする。しかし、それよりも早く弟が声を出した。
「兄貴は俺を踏み台にして跳躍した。そうやって跳んだ者には義務が発生する」
どういうことだ。南雲は弟を見る。
「気楽に諦めんなよ。勝手に負けて帰ってくんなよ。てめえが敗北を受け入れるってことは、俺の人生も否定しているんだよ。
出版社とは喧嘩をしたのか。してねえんだろ。俺と殴り合った時みたいに戦ったのか。尻尾を巻いて逃げてきたんだろう。喧嘩しろよ。いや、喧嘩じゃ飽き足らねえ。戦争をしろよ。世の中をあっと言わせるような勝負をしてみろよ」
少年時代の弟が目の前にいた。口で終わらず拳が出ていた頃の弟だ。
「俺はな、兄貴の本が出てからずっと、テオになった気でいたんだよ」
「テオとはなんだ」
「テオドルス・ファン・ゴッホ——。フィンセント・ファン・ゴッホの弟だよ」
南雲は驚いて弟を見る。テオとは、画家の兄を支え続けた弟のことか。弟は、自らをテオになぞらえていたのか。
「いいか、来年の四月まで待ってやる。それまでに小説家として戦い続ける道筋を立てろ。勝負できる作品も書け。もしそれができねえようなら、この家から叩き出す。兄貴の部屋を潰して、物置にする」
「おい、この家と土地は、俺も権利を持っているんだぞ」
「関係ねえよ。文章ばかり書いていた兄貴と違い、こっちは肉体労働をしてんだ。殴り合いなら俺の方が圧倒的に上だ。拳で決着をつけて、放り出してやるよ」
弟の目は本気だ。
「随分と乱暴なテオだな」
「今は拳よりも包丁の扱いの方が得意だがな」
殴り合いでは済まないということか。
「兄貴は出版社に無能の烙印を押された。それをそのまま受け入れるのか? 自分は無能だと認めるのか?」
嘲るように弟が言う。頭に血がのぼり弟をにらむ。
「分かった、四月までだな。やってやる。あとで吠え面を搔くなよ」
「ああ、やれるならな」
南雲は弟とにらみ合ったあと立ち上がる。そして自分の部屋へと戻って行った。
自室で電気を消し、月光を浴びながら考える。売り言葉に買い言葉で言ったはよいが、どうしたものかと頭を抱える。
今のままでは、ただの無職だ。どれだけ必死になって原稿を書いても、出る部数はたかがしれている。弟に認められることはないだろう。
しばらく悩んでいると、漣野(れんの)のことが頭に浮かんだ。
漣野は電書テロリストの道を歩み始めた。彼のことが気になる。自分のことよりも他人のことを心配するのは、編集者をしていた性分なのだろう。自分は友のために、なにができるか。それが、テロリストとしての参戦でないことだけは確かだ。
他人を傷つけながら、自己の意思を通そうとする行為。そうした人間は、目立つことはできるが信用されることはない。もっと正面から、人々の賛同を得られる形で戦わなければならない。
漣野を助ける方法はないか。
南雲は月を見上げて腕を組む。自分の人生を振り返る。南雲はこれまで大中小と三つの出版社を経験した。小説家になった時、少しばかり休みを取ってもよいと考えた。
漣野を救い、自分の苦境も解決する。そうした一石二鳥のアイデアが心に浮かぶ。
しかし、それは思いつきのレベルでしかない。アイデアを形にするには、知識と経験が必要だ。詳しい人間に教えを請う。漣野に話を聞いた時と同じだ。
二十年以上前に出会った知人。長らく疎遠になっていたが、年賀状で近況は知っている。棚を調べて今年の年賀状を探す。電話番号を見つけて、スマートフォンに入力する。
「久し振りです、南雲です。相談に乗って欲しいことがあるんです」
自分の考えを実現するために、なにから始めればよいのか。南雲は古い知人に、直接会って話を聞きたいと伝えた。
◆ネガティブ・スパイラル
十月下旬になった。月の後半ということで、電子書店との定例会が続いている。そして今日は、天敵の有馬(ありま)と会う予定になっている。
会社の本館四階。枝折(しおり)は、電子書籍編集部の部屋を出て、階段へと向かう。
「はあああ」
階段を下りながら、思わずため息が出た。二日前に、BNB専売の小説が、ようやく二本届いたので有馬に送った。まだ校正をしていないものだが、なにも進んでいないと文句を言われないために共有したのだ。
——いただいた原稿には、いくつかの大きな問題があります。その件について、明日の定例会では話をしたいと思います。
昨日届いたメールだ。有馬からの返信に、枝折は胃の辺りが重くなった。
いったいどんな苦情を言われるのか。顔を合わせる前から、憂鬱な気分になる。
一階にたどり着き、受付に向かう。眼鏡アルパカといった風情の有馬が、新刊書籍の棚の前に立っていた。
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