「努力って、自分でハードル上げれば、
いつの間にか当たり前になっていくんですよね」
(村上信五,1982-)
目標に最短でいこうとしていた
ビートたけしをして「器用な人は何をやっても器用」と太鼓判を押された男・村上信五。マツコ・デラックスとの『月曜から夜ふかし』MCをはじめ、バラエティ番組を中心に活躍しています。関ジャニ∞としてのレギュラーを合わせると、週8本のテレビのレギュラー番組を持っていた時期もあるほどの、売れっ子バラエティタレントです。
タメ語と敬語を器用に使い分ける、安定の域とも言えるそのトークを見ていると、すぐに華が開いたようにも見えますが、そうではありません。
ジュニア入りは1996年。当時は、本人も「ただキャーキャー言われたくて、嫌われないようにすることしか考えていなかった」と振り返る通り、よくも悪くも押しの強い関西Jrの1人でした。
そして、Jr入りからデビューまでは約8年、そこからレギュラーのMC番組を持つまで3年。その足跡を振り返り、こんな発言をしています。
「目標に最短でたどり着こうとしすぎていた」
どういうことなのか、この22年の足跡を追ってみましょう。
見えた道がそこしかなかった
1996年の末、中学3年生のときに、事務所に入り、すぐに関西ジャニーズJrの中心メンバーとして、前面に押し出された村上信五。当時は、関東のJrとして、滝沢秀明や、現在の嵐のメンバーがいて、Jrの黄金期と言われた時代。村上は、同じ関西Jrの横山裕・渋谷すばるとともに、東京で寮生活をしながら活動を続けます。
しかし、黄金期のJrたちに囲まれて、
「歌もダンスも演技も、僕はいちばん才能がない」
「周りには嵐とかタッキー&翼がいて、歌っても踊っても、オーラや華も全然違う」
と感じ、自分の立ち位置に悩みはじめます。そんなとき「Jrにツッコミっておれへんな」と気付くのです。
「その頃の僕は、〝ガヤ〟ですよ。にぎやかし役しか立ち位置がなかった。ただ、ラッキーなことに、当時のJrはボケてなんぼっていう空気があったから、その中でいちばんのツッコミになろうと思ったんでしょうね」
そうして、自分の道が見え始めてきます。
「いろんな道の中から選んだんじゃなくて、見えた道がそこしかなかった」
と振り返る村上は、色々なバラエティ番組を見て、ツッコミを勉強していきます。
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