一故人

森田和郎、中村誠—2013年6月の物故者

今回の「一故人」は、2012年7月に亡くなり、2013年の6月になってその死が公表された、コンピュータ将棋ソフト「森田将棋」で著名な森田和郎と、資生堂のブランディングなどに寄与した国際的なグラフィックデザイナー・中村誠を取り上げています。生み出したものが後世に与えたインパクトも大きい二人の歩みをお読みください。

「プロ棋士に勝つプログラム」を目標に将棋ソフトを開発—森田和郎(2012年7月27日没、57歳)

『ドラゴンクエスト』シリーズで知られるゲームデザイナーの堀井雄二は、もともとフリーライターとして世に出たが、1983年、エニックスの主催する「ゲーム・ホビープログラムコンテスト」に応募したテニスゲームが入選したのを契機に、ゲームの世界へ進出した。

このときのコンテストで2席に選ばれたのは、当時高校生だった中村光一の『ドアドア』(同作はのちにファミコンゲームにも移植された)であり、そして1位となったのは、森田和郎のウォー・ゲームであった。のちに『森田のバトルフィールド』として発売されたこのゲームは、画面をスクロールさせられるという、いまでは当たり前になっている機能が備わっていた。

森田はその前年の1982年には、アスキーの主催する「マイクロ・オセロ・リーグ」というパソコンによるオセロ王座戦に第3回より参戦、それまで12手先まで読めるアメリカのプログラム「リバーシ・チャレンジャー」が全勝していたところへ、13手読みのプログラムで挑戦して、優勝した。このプログラムはアスキーから商品化されている(記録媒体は磁気テープ)。

この当時、森田は医者だった親のすすめで入った埼玉医科大学に在学中だったが、もともと人見知りするたちの彼は「患者の話を聞くのがつらい」との理由からプログラマーの道を歩もうとしていた。オセロのプログラムでわずかとはいえ印税が入ったこと、そしてエニックスのコンテストで優勝したことから決意を固める。すでに在学中の1982年には、ソフト開発・販売のため「ランダムハウス」という会社を設立していた(1999年に同社の営業権・商品の販売権などが悠紀エンタープライズに譲渡され、森田も移籍する)。

1955年に富山県に生まれた森田は、アメリカのアップル社の元CEOであるスティーブ・ジョブズやマイクロソフト会長のビル・ゲイツと同い年ということになる。日本でもほぼ同世代として、前出の堀井雄二(1954年生まれ)のほか、アスキー創業者の西和彦(1956年生まれ)やソフトバンク社長の孫正義(1957年生まれ)がいる。

精神医学者・評論家の野田正彰によるノンフィクション『コンピュータ新人類の研究』(1987年)は、西や孫ら若き起業家をとりあげるとともに、ゲーム開発者たちの横顔を描いた章には森田も登場する。そこで彼は、ナムコで『ゼビウス』『ドルアーガの塔』などを手がけた遠藤雅伸との対比から、次のように紹介されていた。

《遠藤さんは、ゲームのストーリー、キャラクターの構成、絵や音楽の選択、スピードなど全体をデザインし、都市の感覚を表現する華麗なるゲーム・デザイナーだった。一方、プログラムのテクニックそのものに思考を集中し、マイコンからいかに優れたアルゴリズム(設定された問題を解くための一連の命令、あるいは手順)を引き出せるか、ひたすら考え続けてきたゲーム・プログラマーが森田さんである。遠藤さんをゲームの芸術家とすれば、森田さんはゲームの学者である》

森田とプログラムの出会いはかなり早い。小学校高学年のときにはすでにコンピュータに興味を持ち、FORTRAN(プログラミング言語の一種)の本を買って、頭のなかでプログラムを組んだりしていたという。小さな頃から病弱だった森田は、「賢い、頭がいい」ということにこだわり、父からも小学校1年にして数学の微積分を教えられたりと、いろんな勉強をさせられていたようだ。

実際にコンピュータに触れたのは高校時代、学校にプログラム電卓が入ったときのこと。それは計算だけでなく、キーを押してプログラムをつくり、初歩的ではあるが判断させることができるというものだった。1973年に東京工業大学に入学すると、父にねだって学校と同じプログラム電卓を買ってもらったものの、マニュアルを読んでみて、ほとんど何もできないことを知り、がっかりしてしまう。

ちょうど大学に行く途中には将棋道場があった。小学校のときに将棋のルールを覚え、高校時代に本格的にやり始めていた彼は、その道場に入りびたり、一時は本気でプロ棋士になりたいとも考えた。東工大は結局2年で中退し、富山に連れ戻されてからも1年間は将棋ばかりしていたという。埼玉医大に入ったのはそのあとで、2年生だった1976年にはNECから日本初の個人向けパソコンである「TK-80」が発売され、ふたたびコンピュータで遊ぶようになる。詰め将棋やオセロのプログラムをつくろうと思い立ったのもこの時期だ。

少年時代よりひとりで遊ぶことの多かった森田は、オセロも将棋もほぼ独学で習得した。「オセロ・ゲーム」をつくったときですら、実戦経験はまったくなかったという。その後、大会で二段の人と初めて対局し、「初心者なので」と断って始めたため第1戦では相手が教えてくれるという態度だったが、結果的に森田が勝った。続く第2戦でも勝ち、驚く相手に「コンピュータで練習した」と言うとけげんな顔をされたという。

初期のパソコンで将棋のプログラムを組む場合、読みの手も、形勢を判断する要素もオセロ以上に多すぎて、非常に難しかった。森田が最初の将棋ソフト(NECのパソコン「PC98」用)である『森田和郎の将棋』を1985年に発売するまで、2年かかったのもそのためだ。

この時代のプログラムの方式では、素人ならともかく、有段者、ましてやプロ棋士には永久に勝てないものと考えられていた。それでも森田は、いつかはコンピュータがプロ棋士に勝つ日が来ると信じて疑わなかった。前出の『森田和郎の将棋』も、「将来的にプロ棋士に勝てるプログラムをつくりたい」という目標を掲げて、その後もバージョンアップを重ねた。ちなみに「森田将棋」のシリーズには最初から、マウスの右クリックで駒をひっくり返す機能など、現在の将棋ソフトに通じる機能やインターフェイスの基礎の部分がすでに備わっていた。

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この連載について

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一故人

近藤正高

ライターの近藤正高さんが、鬼籍に入られた方を取り上げ、その業績、人柄、そして知られざるエピソードなどを綴る連載です。故人の足跡を知る一助として、じっくりお読みいただければ幸いです。

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コメント

donkou cakesリニューアル前に、これから約1時間、拙連載の最新回を無料でお読みいただけます。よろしくお願いします。 5年弱前 replyretweetfavorite

Axel_Nico  「森田将棋」の人。 5年弱前 replyretweetfavorite

sadaaki 森田将棋の 5年弱前 replyretweetfavorite