■四 炎のドン・キホーテ
◆エンプティ・ブック
八月最初の金曜日。会社が終わり、枝折(しおり)は部屋に戻ってきた。
学生の時のアパートにそのまま住んでいるために、壁は薄く冷房の効きは悪い。自分で給料を稼ぐようになったのだから、もう少しきちんとした場所に移った方がよい。そう思いながらも、大学生活で慣れた便利さに引きずられて、そのまま居続けている。
枝折は、文机の上でノートパソコンを広げる。会社のものは、重くて持ち歩くのが不便だったので軽いものを買った。購入した時、とうとう自分も電子書籍編集部の色に染まり始めたなと、ため息を吐いた。
ウェブブラウザを開き、ネット巡回を始める。遊んでいるようだが、これも仕事の一環だ。ニュースをチェックして、ツイッターのトレンドを確かめる。事件や訃報、SNSでなにがバズっているかも追う。そして自社の本に繫がる情報があれば、企画をまとめて電子書店の担当者にメールを送る。
タイミングは深夜でも早朝でも構わない。すぐに担当者が見なくても、翌日の朝には確認される。そして、いけると思えば読者に情報を流したり、特集ページを作ったりしてくれる。
仕事のスピード感が、紙の本とはまるで違う。書籍というよりは雑誌に近い。それも週刊ではなく日刊だ。リアルな書店ならば、同じ速度で棚を作ることはできないが、電子書店ならば対応してくれる。実体のないデータを扱うからこそのテンポだった。
「これは確か……」
枝折はニュースの一つに注目する。
最近経営を多角化しているIT企業が、上場準備をしているようだ。その会社の名前で商品を検索する。社長のインタビューをまとめた本が過去に出ていた。すぐに売り込む企画を書いてメールで送る。
もう遅い時間だから反応があるのは明日以降だろう。そう思っていると返信が届いた。
——その情報は既に捕捉しています。自動アルゴリズムが、顧客へのプッシュ通知をおこなっています。
BNBの有馬(ありま)からだ。
「あー、もう、腹が立つなあ」
目の前にいない有馬に対して、ジャブ、ジャブ、ストレートとパンチを食らわせる。
BNB専売の件があるため、電子書店の担当の中では、有馬と最もやり取りをしている。そして、様々な議論をねちっこく吹っかけられている。そのせいで正気から狂気に、枝折の精神のメーターは傾きっぱなしだ。
「はー、せいやっ!」
気合いを入れて、ノートパソコンを終了する。有馬のメールも視界から消えた。
「よっしゃあっ!」
有馬を葬った気分になり、枝折は精神の安寧を取り戻す。
「さーて、そろそろ行くかな」
腰を上げ、ノートパソコンを本棚の隙間にしまう。
棚の前に立った枝折は、自分の蔵書をながめる。就職以来、ほとんど増えていない。自由な時間が減ったこともあるのだが、仕事のためということで、スマートフォンの電子書籍アプリを利用しているからだ。
時代は変わりつつある。人々は紙の本を読まなくなってきている。こうした紙の本に囲まれた部屋は、過去の景色になるのかもしれない。
それでも本当に自分は、紙の本の部署に行きたいのか。
本棚から文庫本を一冊抜く。古本屋で買った二十年前の小説。先日、同じ本を買ってきて、電子化するために裁断した。スキャナーで取り込むために、背表紙を落として、ばらばらにした。
自分の身を切り刻んだようだった。新しい文化が生まれる時、古い文化を愛する者は、激しい心の痛みを感じるのかもしれない。しかし、新しい形態に移ることで、その生を長らえる文学もある。
本棚には、大学時代に学んだ古典文学の本も多い。様々な出版社が出している古典の文庫。有名どころでは古今和歌集や新古今和歌集もある。源氏物語や平家物語もある。それらは当時とは形を変えて、今でも読み継がれている。
枝折は名残惜しい気持ちを抱えながら、鞄を手に取る。扉を閉める時、部屋の奥にある枕簞笥を見た。
「栞、あまり使わなくなったな」
枝折は鍵をかけ、弥生と会うために信州に向かった。
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