運なんてものは、あてらには初めからないんだよ」父と子 ー3

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

 夜明けから日の入りまでこき使われ、へとへとになった弥八郎は、湯屋に行って湯舟につかり、これから先のことに思いをせた。

 —このままでは、本当に十年かかるな。

 淡路屋では、河村屋七兵衛の紹介で来たというだけで白い目で見られ、先輩大工たちは弥八郎に厳しく当たる。それを伊三郎も見て見ぬふりをしている。

 しかも、やらされるのは材木の運搬や掃除といった見習い仕事ばかりで、いつになっても鉋一つ掛けさせてもらえない。

 そんな日々が数カ月続き、ようやく弥八郎も、伊三郎たちが自分を追い出そうとしていることに気づいた。むろん七兵衛の手前、伊三郎からは「出ていけ」とは言えないので、弥八郎の方から出ていかせようというのだ。

 そくなやり方だ。

 そうは思いつつも、弥八郎には耐えるしかない。

 皆で示し合わせているのか、弥八郎に話し掛ける者はいない。そのため弥八郎は休憩時間も一人で過ごし、一日の仕事が終わった後も一人だった。

 —だが、ここで音を上げるわけにはいかない。

 出ていこうにも、弥八郎には行き場がないのだ。

「あの、もし—」

 湯屋からの帰り道、突然、暗がりから現れた女に声を掛けられた。頭には手拭いを掛け、小脇に筵らしきものを抱えている。

「旦那はん、遊んでいきませんか」

 —なんだ、たちぎみか。

 立君とは、しろうとと総称される私娼たちの最下層に位置し、筵を抱えて客を引き、晴れていればどこかのやぶの中で、雨であれば寺社の軒下などを借りて春をひさぐ女たちのことだ。

 だが常の立君であれば、無理やり腕を取って暗がりに引きずり込もうとするのに、その女は慣れていないのか、ただそこに立ち尽くしていた。

「金なんてねえよ」

 そう言い残すと、弥八郎は歩き出した。

「あの、いくらだったら出せるんどすか」

「いくらも出せねえよ」

 追い払うためにすごを利かして言ったところ、立君は「すんまへん」と言って下がっていった。そのあつなさに拍子抜けしたが、立君とて金のない者に、いつまでもかかずらっているわけにはいかないのだろう。

 —ここで食べていくのは、並大抵ではないからな。

 弥八郎は、塩飽での食うに困らない生活が特別だったことを思い知った。

 その時、背後の暗がりから、だみ声が聞こえた。

「まだ客の一人も取れへんのか」

 続いて何かをはたく音がすると、女の嗚咽が聞こえてくる。

 —かかわり合いにならない方がいい。

 弥八郎の冷静な部分がそうささやく。だが、さらに罵倒が聞こえてきた。

「この役立たずめ。客も引けへん立君なんて野良犬以下や」

 —野良犬だと。

 弥八郎は、自分のことを言われたかのような気がした。

 —お前は見て見ぬふりをするのか。それでは、お前はおとっつぁんと同じじゃないか。

 心の中の別の一部が弥八郎を叱咤する。

 —おとっつぁんと同じだと。わいは違う!

 ゆっくりと振り向くと、大男が女を板塀に押し付けて、腕を振り上げていた。

「おい、待ちなよ」

「何や、あんさんは」

 振り向いた男の顔に驚きの色が浮かぶ。

「通りがかりのもんさ」

「じゃ、向こうへ行ってや」と言いつつ、男が再び腕を振り上げる。

「兄さん、やめときなよ」

「何やて」

 男が弥八郎の方に向き直った。

「わいのやることに文句でもあるんか」

「あると言ったらどうする」

「よう言うた!」

 次の瞬間、男が弥八郎の胸倉を摑もうとしたが、その手を払った弥八郎は、体を入れ替え、足を掛けて男を突き飛ばした。

「うわっ!」

 勢い余って積まれたてんすいおけに突っ込んだ男が、無様に転がる。

「こ、この野郎!」

 立ち上がった男は、ずぶ濡れになっていた。

「まだ、やるってのかい。こちとら腕には多少の心得がある。やる気なら相手をしてやるぜ」

 弥八郎の言葉に男はおじづいたのか、「覚えてやがれ」と言い残して駆け去った。

 —これで済んでよかった。

 子供の頃から喧嘩っ早い弥八郎は、その度に嘉右衛門からひどく叱られた。

「大工ってのは腕が命だ。腕を怪我したら飯が食えなくなる。それだけは忘れるな」

 その言葉を思い出すと、冷や汗が出る。

「あの—」

 女はまだそこにいた。

「なんでえ」

「あの人は、すぐに仲間を呼んできます」

 まだ危険は去っていなかった。

 —これで怪我でもしたら、いよいよ淡路屋にはいられなくなる。

 伊三郎は、これ幸いと弥八郎を追い出すだろう。

「ああいう連中は、一人では弱いので互いに助け合っています」

「じゃ、消えるしかねえな」

 そう言って走り去ろうとする弥八郎の袖を、女が取った。

「待って下さい。このままでは、あてもただでは済みません。どうか連れてって下さい」

「よしてくれよ」と言いつつ女の腕を払おうとしたが、間近に見た女の瞳は真剣だった。

「どうか—、お願いします」

「分かったよ。でも逃げ切ったら、後は知らねえよ」

 そう言うと弥八郎は、女の手を取って駆け出した。

 —天満まで来れば、ひとまず安心だ。

 歩を緩めた弥八郎は、女の手を放してに下りた。そこはがん(階段)になっており、左右にはびっしりと浜納屋が並んでいる。むろんこの時間、どの浜納屋も戸が閉まっており、周囲に人気はない。

 水打ち際まで行って水を飲もうとすると、女が「ここの水はよくないどす」と言う。

 そう言われると飲む気もせる。

 弥八郎は水を飲むのをやめると、雁木に腰を下ろした。どこかで犬の遠吠えが聞こえる。昼の喧騒が噓のように、大坂は寝静まっていた。

「よろしいですか」と言いつつ、女が横に腰を下ろす。

「顔を見られたかな」

 弥八郎は仕返しが心配だった。

「あそこは暗がりやったさかい、顔は見られてないと思います」

 意外に女は冷静だった。

「わいは弥八郎というんだが、あんたの名は」

「ひより、いいます」

「ひ、よ、りというのかい」

 女がこくりとうなずく。

「うちは農家やったさかい、晴れの日が多くなるのを祈って付けたと、かあちゃんから聞いたことがあります」

 弥八郎は、農家がそうした願いを込めて子に名を付けるのだと初めて知った。

「珍しい名前どすか」

「ああ、聞いたことがない」

 と言っても、弥八郎は塩飽のことしか知らない。

 弥八郎は、自分のことをかいつまんで語った。

「それで、お前さんはどこの産だい」

「京都の北の福知山いうとこどす」

「ああ、だから『どす』と言っているんだな」

「そうどす。でも洛中の人たちからは、同じやましろのくにとは思ってもらえまへん」

 ひよりが口辺をほころばせる。

「そうか。あんたは、京都でもここでもものか。わいらは似た者同士だな」

「そうかもしれません」

 二人の会話は続いた。

 それによるとひよりは、福知山近郊の農家の出で、あまりの貧しさからげんに売られ、大坂で働かされているという。年は十六なので、二十一になる弥八郎とは五つ違う。

 —器量は十人並みで体型もきやしやだし、これでは、なかなか客も付かないだろうな。

 そう思ってひよりの顔を見ていると、ひよりは恥ずかしげに俯きながら歌い始めた。

 福知山出ておさ越えて駒を早めて亀山へ

 ドッコイセ、ドッコイセ

 福知山さんあおいの御紋いかな大名もかなやせぬ

 ドッコイセ、ドッコイセ

 今度お江戸の若殿様に知行が増すげな五万石

 ドッコイセ、ドッコイセ

 そのかすれた声が耳に心地よい。

 黙って聞き入っていると、次第にしゃくりあげるようになった。

「辛かったんだな」

「はい」

 弥八郎がひよりの肩を抱き寄せる。

「帰りたいのか」

「うん。でも帰れない」

「どしてだ」

「あては邪魔者だから」

 その言葉が弥八郎の胸を抉る。

 —わいは誰にも邪魔者扱いされなかった。だが故郷を捨てた。ここにいる女は親に邪魔者扱いされ、故郷を出ていかねばならなかった。

 弥八郎は自分の甘さを痛感した。

「これからどうする」

「分かりまへん」

「行くところはないのか」

「ありまへん」

 ひよりが首を左右に振る。

 —このままじゃ、同じことの繰り返しだ。

 食べていけなくなれば物乞いになるしかない。だが若い女なら春をひさぐことはできる。結局は、そこに落ちていくしかないのだ。

 —このままなら生涯、ひよりはがいから抜け出せない。

 それを思うと、あんたんたる気分になってくる。

「どうして、この世は思い通りいかないんだ」

 胸内から感情が溢れ出てきた。

「あんたも辛いんやね」

「ああ、何をやってもうまくいかねえ。わいには人並み以上の才も腕もあるんだ。だが、どうしても運が向いてこねえんだ」

「運なんてものは、あてらには初めからないんだよ」

 —確かにそうかもしれない。この女もわいも、ここでは、これからずっと底辺をいずって生きていかなければならないんだ。

 弥八郎は、世間全体を敵に回しているような気がしてきた。

 —だが、この女だけでも救えないか。この女を救うことで、わいの運も開けてくるんじゃないだろうか。

 なぜか弥八郎には、そんな気がした。

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伊東 潤
光文社
2018-10-30

コルク

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