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翌朝、名古屋のホームに降り立つと、不思議なほど普段通りでした。そのまま地元の放送局に呼ばれて緊急特番で被害を解説。それが終わって大学に戻り、災害対応の準備をしていると、「福島原発1号機が水素爆発」の一報が。
爆発で屋根のなくなった建物を見て、原発の耐震設計に関わっていた一人として、建物の耐震のことしか知らなかった自分が情けなく、忸怩たる思いが込み上げてきました。その後、格納容器の上を覆う建屋が簡単に吹き飛んだことについて、多くの取材を受けました。同時に、大学内に震災情報の提供を行う場を開設し、正しい情報の発信に努めました。これが後の「減災館」建設の動きにもつながっていきます。
正直に言うと、私は原発の設計といっても建物のことしか知りませんでした。敷地内のレイアウトが決まった後に、建屋の耐震性のチェックをするぐらい。極めて受身的な仕事をしていました。
新潟の柏崎刈羽原発7号機の設計に関わりましたが、2007年の新潟県中越沖地震では柏崎刈羽の構内で火災が発生しました。そのときはうまく消し止められ、私も建屋が地震で壊れなければよい、というぐらいにしか感じませんでした。
だから、福島の危機のときも、最初は炉が停止したと聞いて、「冷やす」「止める」「閉じ込める」の原則ができているのだからよいだろうと思いました。
その2時間後に非常用ディーゼル発電機が止まったとの報に接したときも、大きな危機感は持ちませんでした。そのうち動くだろう、というぐらいの思いです。
まさか津波で全部やられ窮地に陥っていたとまでは、想像が及びませんでした。どんな理屈で水素が出て爆発するのかなども、全く知らないこと。
原子力の世界は、あまりにもたくさんの専門家が関わっていて、お互いに情報交換することはめったにありませんでした。
ただ、原子炉建屋の屋根は吹き飛びやすいように軽くつくっていたのは知っていました。
柏崎刈羽原発の仕事をしているときに、疑問に思い、同じ会社の設計担当者に聞いたことがあるからです。「爆発したとき、力を外に逃がして原子炉を傷めないためだ」というのが答えでした。「どのようなときに爆発の可能性があるのか」とか「どうして水素爆発が起こるのか」など、それ以上は聞きませんでした。聞くべきだったと思います。
原子力施設の設計では、戦闘機やジャンボ機が突っ込むとか、タービンの羽が外れて飛ぶとかという「万が一」の計算をよくします。「爆発の可能性」と聞いたときも「万が一」の中の一つと思っただけで、深く考えなかったのかもしれません。
建屋を担当している人は、原子炉やタービン、配管のことを知らず。逆も同様です。専門家はたくさんいますが、隙間が多くて間をつなぐ人がいません。
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