きさらぎ前、きさらぎ後
今しがた、駅前のファミリーレストランで和食ランチを食べてきた。若鶏の竜田揚げだった。竜田揚げはこの値段にしてはジューシーで、漬物と味噌汁付きだ。白米か十三穀米から選べるもうれしい。
なのに千切りキャベツを食べながら思い出すのは、半月前に食べた「きさらぎ亭」のことばかりでまいった。この3倍はあろうかという山盛りのキャベツはシャッキシャキで、もそもそしたファミレスのそれとは歯ざわりがまるで違う。きゅうりと白菜の浅漬けも、塩味の遠くにあるわずかな酸味が絶妙だった。きさらぎ亭の分厚くて柔らかいチキンカツにかかっていた、ウスターでもデミグラスでも味噌ベースでもないあの甘辛ソースは、どうやって作っているんだろう。
一番人気のチキンカツ。甘辛い後を引く味のタレ、マイルドな酸味のドレッシングともにレシピは企業秘密
カウンターに座って黙々と食べた半月前のチキンカツ定食が、いちいちファミレスの竜田揚げの邪魔をする。こちらドリンクバー付き918円。きさらぎ亭の皿からはみ出しそうなチキンカツ定食830円。
こんなことなら、きさらぎ亭に行かないほうがよかった。一度でも食べると、戦前・戦後みたいに、きさらぎ前・きさらぎ後の線引きが自分の中にできてしまう。安くて旨くてボリュームたっぷりなものだから、定食に対する偏差値が一気に高くなり、そのへんのものでは満足できなくなるのだ。
ああ、それにしてもまたあのチキンカツ定食が食べたい。ホワイトクリームの中にエビフライを埋め、衣をつけて揚げたオリジナル料理、エビクリームフライも気になる。丼からはみ出さんばかりに野菜と豚もつがゴロゴロ入り、一本分はあろうかという小口切りのネギがこんもりのった煮込み定食も。知らなければこんなに苦しくなかったのに。きさらぎ亭は、夜伽(よとぎ)の上手い昔の男みたいだ。
突然の退去通告
「ここを取材候補にどうでしょう。桜新町で40年続いています。でも、なんだか閉店が決まっているみたいで、移転するのかどうか、その後がごちゃごちゃとよくわからないことになっています」
2017年10月。私は編集のモトさんにきさらぎ亭を推した。人の心を描いた食堂の物語をと彼女から提案され、リサーチを始めて間もなくのことだ。取材の合間や出張先で、昼に一人で定食屋に入ることが多い私は、ボリューム、価格、味、料理がていねいかどうか、歴史、地元の愛され具合といった条件すべてを満たすめぼしい店をピックアップ。とりわけ老若男女、地元民の口コミの評判が高く、気になっていたのが、きさらぎ亭だった。
飯碗と同サイズの丼に入った煮込み。女性なら二人で分けたくなるほどのボリュームだ
ところで、ホームページもツイッターも、SNSの宣伝手段を何ひとつもっていない昔ながらのこの店の名を、私は特異な場所で見つけたのである。
クラウドファンディングのサイトだった。
『つい先日の2017年9月末。入居している建物の老朽化により、急遽、一週間後の10月25日の15時に退居が決定しました。
しかし、40年間、一緒に歩み続けた桜新町でお店を続けたいとの思いから、町内で移転し1月から営業を再開したいと思っています。
昨年から老朽化の話しは出ていたのですが、急な退居の話しに何も準備が整っていません。
これからも桜新町でお店を繋いでいくため、移転費用の一部を皆さまのお力をお借り出来ないでしょうか?応援どうぞよろしくお願いいたします(きさらぎ亭 10月18日)』(Ready forより)
移転費用は800万円。自力で工面しても足りないあと80万円が目標額だ。
定食屋がクラウドファンディング? あと1週間で? クラウドファンディングは、もっと時間をかけて金を集めるものではなかったか……。
潰れてしまうのか。ひやひやしながら、固唾を呑んで行く末を見守った。
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。