難民映画を観て、「国境がなくなればいい」と言う娘
次女がドキュメンタリー映画のリンクを送ってきた。彼女は弱い者の味方で、社会の不正に立ち向かっていく学生運動家タイプ。常に国家権力に抵抗している。私から見れば、若気の至りの感、大いにアリだ。
映画は、不法にEUに入国し、政治亡命を申請する外国人の様子をルポしたものだった。あまり多くの人が詰めかけるので、管轄の役所は受付制限をする。だから、役所の玄関で亡命希望者が必死の形相で順番を争うのが、毎朝の風景。下手をすると、殴り合いまで始まる。
おそらく皆、飢饉やら干ばつやら内戦で、食べていけなくなった人たちだ。最後の望みをかけて、不法入国をサポートするヤミ業者に有り金をはたき、アフリカ大陸から沈みそうなボートで炎天下の地中海を渡り、命がけでEUにたどり着いたに違いない。しかし、政治的に迫害されたわけではないから、本国に強制送還となる可能性が高い。そうなったらどうして生きていくのかと思うと、胸が詰まる。
映画を見終わって電話をしたら、娘は言った。
「ひどいでしょ。なぜ、全員受け入れてあげないのかしら?」
「でも、そんなことをしたら、どんどん来るわよ。キリがない」
(すべての経済難民をドイツの納税者が引き受けるのは無理だということぐらい、あなたにも理解できるでしょう)と私は心の中でつぶやく。難民には気の毒だけど、ハンブルクの役所のしていることは間違ってはいない。
ところが、娘は言った。
「なぜ、皆、来てはいけないの? 自分の国では貧しくて暮らしていけないのよ」
私は、言葉に詰まった。私の常識は、彼女の常識とは違うらしい。そこに追い打ちをかけるように、彼女は言った。
「ママ、国境がなくなれば、いいと思わない? そうしたら、不法入国者なんて、いなくなるでしょう」
さらに戸惑う私。
「でも、ドイツに皆が入国できるとわかれば、アフリカが丸ごと引っ越してくるわ。そうしたら、私たちまで貧しくなってしまう」
すると、娘は答えた。
「そうやって自分のことばかり考えるからいけないのよ。皆で分け合えばいいじゃない」
一瞬、(そんな馬鹿な!)と腹が立ったが、なぜかその時、ふと、私の中で発想の転換のようなものが起こった。言い方は稚拙だが、本当に世界の平和や平等を望むなら、彼女の言っていることはそれほど間違っていないかもしれない、と。
娘とディスカッションするのは、腹が立つうえに疲れるが、ときに、古い頭の中を新鮮な風が吹き抜けるような感じがすることもある。
貧しい加盟国から豊かな加盟国へ、人間の流入が問題化するEU
なるほど、各国がそれぞれ国益やら、自国民の福利を第一に考えるなら、政治家がどんなきれいごとを並べようが、国の折衝は利害のぶつかり合いだ。そして、その結果、強い国が既得権益を失うことは稀であり、したがって、貧しい国はいつまでたっても貧しいままだ。しかし、政治家が国益を第一に考えるのは当然のことで、国民もそれを期待している。つまり、各国がこの当然のことをしている限り、皆が幸せに暮らせる世界は絶対に訪れないのではないか。
たとえば、EUがそうだ。これは、加盟国の国境線を取り払い、自国という概念をEUに拡大し、人・物・金・サービスの自由な移動を旨に、将来は一国ではなく、EU内で利益を共有しましょうという試みだった。つまり、国境線が変化しただけで、元々各国が持っていた排他的な発想に変化はない。
そして、EUが先進国のエリートクラブであった間は、これは実にうまくいった。EUの境界線が、すなわち貧富の境界線だった。しかし、国境を取り払い過ぎて、貧しい国が加わり始めると、EUは利害を共有できなくなり、たちまち機能しなくなった。
今、EUでは、貧しい加盟国から豊かな加盟国への人間の流入が大問題になっている。その結果、豊かな国の国民は、自国の社会保障制度が貧しい他国民に食い散らかされるのでは、と感じている。そこで最近、EUの内務大臣たちが何を決めたかというと、国境での旅券審査の復活だ。いや、正確に言うと、旅券審査を復活したい国はしてもよくなる(ただし、2年の期限付き)。EUの崇高な理念は、EUから得られる利益が多いあいだは高らかに謳われるが、EUが利益をもたらさなくなると、さっと引っ込んでしまう。
この連載について
シュトゥットガルト通信
シュトゥットガルト在住の筆者が、ドイツ、EUから見た日本、世界をテーマにお送りします。