最初はゲスな関心だったかもしれないけれど
年上の女性とも、こんなに親密になれるんだ、と教えてくれたのは田原節子さんだった。元日本テレビのアナウンサーで、田原総一朗さんの妻。私が節子さんを知ったのは、田原総一朗さんと二人で書いた『私たちの愛』(2003年)という本を通してだった。
『私たちの愛』は、当時大変話題になっていた。若いジャーナリストだった田原総一朗さんと日本テレビアナウンサーだった村上節子さんの出会い、そして27年間に及ぶ「W不倫」生活が、二人の視点から交互に描かれていた。正直に言えば、手に取った時私は、「田原総一朗ってW不倫だったんだぁ〜」くらいなゲスな関心だけだったかもしれない。それが読み進めるうちに次第に姿勢を正すような気持ちになった。「節子さんって、何者?」
田原節子さんは1950年代に放送局に入社し、結婚し子どもを産んでも仕事を続けた放送界で初めての女性だった。70年代には、マスコミで働く女性たちと共に、「ウルフの会」を結成した。結婚し、子育てをしながら働く女性たちが直面する問題について語り合い、当時〝若い女性たちの運動〞とされていたウーマンリブに、〝働く中年女〞として果敢に交差し、発言されていた。
また、30代になって「容色の衰え」を理由に日本テレビからアナウンサー職を外された時には、会社を訴え勝訴した。アナウンサーを辞めた後にはプロデューサーとなり、「覚醒剤やめますか?それとも人間やめますか?」などの有名なCMを手がけてきた。
『私たちの愛』には、当時の節子さんの活動が、総一朗さんとの物語の陰に隠れてではあるが、情熱を持って記されていた。女たちが何かを変えなくては、というエネルギーに突き動かされ集まり、語り、活動していった力が、そのまま文章から伝わってきた。1936年生まれの節子さんが、闘い働き、女の道を切り拓いてきた姿が、見えてきた。
「節子さんは悔しくないんですか?」
本を読み、私は節子さんに手紙を書いた。節子さんの話を聞きたい。戦前生まれの女性が、子どもを産み育てながら30年間働き続けられたこと、元祖女子アナとして見えていた世界、会社と闘ったときのこと、そして50代の新たなスタートとして仕事を辞め、総一朗さんのサポートをしてきた思い、ぜひ聞かせてほしいと手紙に記した。
節子さんからはすぐに連絡が来た。すでにがんが骨や脳と、全身に転移していた。入院先の病室で、私と節子さんは会った。
大変な闘病をされているはずなのに、そして節子さんはもちろんパジャマを着ていたはずなのに、なぜか節子さんの第一印象は「おしゃれな人」だった。どこがどう、とは言えないのだけれど、もしかしたら髪飾りだったか、ネックレスだったか、指輪だったか、身につけているものがきれいで、病室に置かれている小物の一つ一つが、節子さんに「選ばれた」という感じで置かれていた。
最初からなんとなく「気が合う」ように私は感じた。もしかしたら節子さんも、そう感じてくださったのかもしれない。一度だけでは足りず、私はその後何度か足を運んだ。
退院された時はご自宅に伺ってまで話を伺った。70年代に女たちがどのように闘ってきたのか。
ウーマンリブは、それまでの女性参政権運動とは違い、性について積極的に語ってきた。女たちの中絶体験を、女たちのオーガズムを、女たちの性の物語を、あの時代どのように女たちが語り合ったか。私はせがむように、節子さんの話を聞いた。
いつだったか節子さんが「自分の名前で教育についての本を書きたいと思っていた」という話をしたとき、私は聞いた。
「節子さんは、悔しくないんですか?だって総一朗さんと結婚していなければ、秘書役も看護婦役も、専業主婦役だってしなくてよかったのに。自分のことだけにかまけて、自分の仕事ができたのに!」
「私は総一朗の看護師・秘書・専業主婦」とは節子さん自身がおっしゃっていたことだ。そのことについて私は何度も、問い詰めるように聞いた。そのたびに節子さんは、まったくいやな顔もせず、「惚れちゃったからねぇ」と笑うのだった。
熱く、怖く、優しい電話
節子さんのもとに通いながら、私はある新聞に小さな記事を書いた。「ウーマンリブだった人が、なぜ、裏方に回っているのか」「男の世話なんかすることないのに」......そんなことを私は記事にした。節子さんへの疑問をぶつけるように、私は記事を書いた。
その記事が出てから数日後、大変なことが起きた。あの、上野千鶴子さんが電話をかけてきたのだ。一度仕事でお目にかかったことはあり、名刺を交換はしたけれど、電話がかかってくるようなことはそれまで一度もなかったというのに。しかも、上野さんの声は、明らかに怒りに満ちていた。