子育てをしている女友だちにお願いしたいことがある

独身、既婚、子持ち、子なし、お金持ち、貧乏、美人、不美人…。ちょっとの「違い」ゆえに、時々ぶつかる私たち。それでも、男には絶対に見出せないものが、女の友情にはあるーー。

「女友だち」の新しいカタチを描く北原みのりさんのエッセイ『メロスのようには走らない。〜女の友情論〜』を特別公開します。

私に気を遣わないで

子育てをしている女友だちにお願いしたいことがある。友よ、心から頼む。子どもがいない私に、気を遣わないで。

「○○ちゃん(子どもの名前)が、なかなか歩かなくてさ。まぁ、ハイハイしないで突然歩きだす子もいるから、心配はしてないんだけどさ〜」

 たとえば友がこんな風に子育て話を始めたとする。あ〜そうだよね〜ハイハイするかしないかで筋肉の付き方が変わるって言われてるみたいだよねぇ〜、と私は相づちを打ったりする。で、会話が一段落すると、友がこんなことを言ってきたりするのである。それもけっこうな確率で。

「ところで、みのりんちの猫、元気?何歳になったの?」

 子どもがおらず、猫や犬や兎やハムスターやインコを飼っている女ならば一度や二度味わったことのある、子育て中の友からの衝撃の〝ペット返し〞である。なかには真剣な顔で、女神のように優しい顔でこう聞く友もいる。

「子どもって個性あるんだよねぇ。上の子と下の子、まったく違うから怒り方も変えなくちゃいけない。そういえば、みのりんち、猫何匹だったっけ?やっぱり、違う?」

 女友だちは優しく、そして残酷である。そう思う瞬間だ。子どもがいない女へ向ける、「あなたに子どもはいないけれど、猫はいる!そういう意味で、母親の気持ちも、母親の体験も共有できるからね!私たちは分断されてないからね!」という、心からの親切心とシスターフッドだ。嗚呼。

 当たり前のことだけれど、子どもを産んだ女も、それまでは子どもを産んだことのない女であった。だからこそ気を遣うのだろう。子どもの話をした後に、「おっと、そういえば、そういえば......」と話題を提供してくれるのだろう。または、子どもの話をするにあたって、まずはこちらの状況を語らせてくれるのだろう。共感能力と、他人の気持ちへの知的配慮が高度に発達した女ならではの、複雑なコミュニケーションである。

20代の頃は想像力がなかった

 でも友よ。あえて言いたい。ほんとにほんと、気を遣わないでっ!!好き勝手に自分の話をしまくって!子育て話をした分だけ猫の話を求められると、急激に侘しさが募るものなのだよ。もしかしたら同情されているのか?と友への不信感が高まりかねない危険な精神状態にもなるのだよ。〝......ねぇ、子どもがいない女は、なんだかんだ言って不幸って......思ってたりするの......?〞と自分でも思いもよらなかった黒く重く恨み深い女が生まれてきそうな気がするんだよ。

 実際に年を重ねるほど、子どものいる女友だちが会話に気を遣うようになっていくのが分かる。夫との関係での悩みなどは気兼ねなくする友でも、子どもの成長に関する話は本気では私にしてこない。もし「私とはできない話」として分類されているのだとしたら、少しだけ寂しい気持ちもある。

 20代の頃は、ママになった著名人女性たちが雑誌などで、「子育てをして成長しました」「子どもを産んで初めて分かったことがある」などと答えているのを読むと、はぁ?何言っちゃってるの?と反発したい気持ちがあった。子育てをしなければしないなりに成長できるし、結局は想像力の問題だろ、と考えていた。子どもを産まない女は「成長できない」「分からないことが多い」と言われているような気持ちにもなったのだと思う。

 また、久しぶりに会うのに子どもを連れてきた友だちが、泣きわめく子どもをあやし続けて結局何も話ができなかった......という状況をストレスに感じることもあった。たいして知ってるわけじゃないのに、「欧米では、子ども文化と大人文化は完全に別。子どもはシッターさんに預けて、大人は夜を楽しむものよ」なんてうそぶいたりもした。子どもを産み育てることへの想像力が、私にはまったくなかったのだと思う。

 もちろん、そう考えるのには時代的な背景もあった......と言い訳もしておきたい。20〜30年前などはまだ、妊娠出産などの体験を漫画や小説にする女性は少なく、率直に妊娠出産体験を描く作品は常に〝衝撃〞として語られた。女が子どもを産むのは「当たり前」のことだとされていて、「女ならば有史以来誰でもが当たり前にしてきた体験をわざわざ表現すること」に対し、女性表現者が遠慮している空気もあった。

もっと質問をすればよかった

 私自身はそういう状況に反発しながらも、「だからといって、妊娠出産を特別のことだと思わないで」と本当のところは無関心だったかもしれない。子どもを産み育てる女の人生に、私たちは社会まるごと過剰に冷静で、妊娠出産子育ての話に耳を傾ける風潮がそもそも薄かった。

 伊藤比呂美さんの『良いおっぱい悪いおっぱい』が出版されたのは1985年、石坂啓さんの『赤ちゃんが来た』は1993年、内田春菊さんの『私たちは繁殖している』は1994年だ。どれも、使い古された「母性」という言葉からははみ出してしまうほどに、身体が生々しく変化し、心が自由に跳ね回り、新しい世界を果敢に味わっていく女の目線でしか書けない斬新な妊娠・出産・子育て体験が綴られていた。

 特に伊藤比呂美さんの『良いおっぱい悪いおっぱい』が、1980年代において、どれだけ衝撃的だったことか!母になることは「母親」という着ぐるみを被るような体験ではなく、問答無用に身体が変化していく、まるごとの身体的経験であることを、伊藤比呂美さんたちは後を歩いている女に教えてくれたのだ。それはまさに「語るべき意味のある」女の物語なのだ、と。

 そんな女語りに触れるようになってから、今の私は少しの後悔と共に、こう思っている。子どもを産んだ友だちに、もっと質問をすればよかった、って。あなたの体験を教えて、話して、子どもの話を、どんどんしてみてよって。

 女として、「子どもを産んだこと」「子どもを産んでいないこと」の間に、大きな溝も壁も違いもないかのように振る舞い、妊娠出産の体験を特別扱いしないように(体験した者もしていない者もお互いに)心がけることで、女友だちの妊娠出産子育ての体験談を聞く機会を私は自ら手放してきたのかもしれないから。

 なんてもったいないことをしたのだろう。だって女の身体がどう変化していくか、産まれたての子どもに乳を吸われる感覚とか、人間がどのように成長していくか......そんな話が面白くないはずがないのだ。わざわざ私の猫の話なんてしなくても、きっと成立する賑やかな女語りになるはずなのだから。

泣き叫ぶ子ども、あっけにとられる私たち

 学生時代の友人ユカが子どもを産んだのは23歳だった。最も遊んでいた人ほど最も早く結婚し落ち着く......というセオリー通り、ユカは誰よりも夜遊びも男遊びも激しい友だったけれど、誰よりも早く結婚したのだった。仲間の中では一番早い妊娠だった。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
メロスのようには走らない。〜女の友情論〜

北原みのり

独身、既婚、子持ち、子なし、お金持ち、貧乏、美人、不美人…。ちょっとの「違い」ゆえに、時々ぶつかる私たち。それでも、男には絶対に見出せないものが、女の友情にはある。「女友だち」の新しいカタチを描く、北原みのりさんのエッセイです。

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント