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古代人は様々な逸話を残した。
嘲笑われながらもその記載を信じた冒険家によって、真実が明らかにされたことも数多くある。
ホメロスのイリアスの記述を信じたシュリーマンによりトロイアが発見されたことは有名であるが、かつて架空の国家であると見なされていた中国古代王朝、夏、商(殷)、周の三王朝が、司馬遷の史記に書かれたように実在したことも証明されている。
偉大な劇作家であっても全くのゼロから物語を創作するのは極めて難しい作業である。基盤となる経験があって初めて想像の世界が広がるのである。古代の逸話とされる話の中には、たとえそれが常識を超えたものであっても、現実に起こったことを記載している話もある筈で、すべてが作り話であると捨て去ることは危険である。
古代に神の仕業と考えられていた多くの天体現象は、現代科学によってそのメカニズムが明らかにされている。
例えば、古代、太陽を神と崇めた人々にとって日食は恐ろしい経験であったに違いない。日食が起こる理由もそれが起こる正確な日時の割り出しも、現代科学をもってすれば常識の範疇となるが、かつては神のみぞ知る秘め事であった筈である。もしそれを正確に計算する方法を知っていた人間がいたとすれば、その人間はその知識を、人々を救うためにも使うことができるが、人々を欺くために利用することもできる。
王と独裁者の違いがほんの僅かなものであるように、神の奇跡と詐欺師のトリックとには紙一重の差しかないのだろう。
もし、本当に神の遺伝子を持った男の子が日本に生まれているとすれば、その子供は……。
渡辺准教授の話は面白かった。
しかし捜査の進展には繋がりそうもなかった。
ウイーンのLEGATからも、ニューヨークタイムズの記者がメソポタミア学会に参加したかどうかの確認は不可能であるとの報告が来ていた。
手詰まりである。
加えて、もし本当に神の遺伝子を持った子供をめぐってイスラム過激派とカソリック教会とが抗争を始めているのだとしたら、自分たちが連続殺人の犯人に辿り着ける可能性は極めて低いことになる。
どちらにせよ、何らかの進展がない限りこのまま日本で捜査を続けている意味はない。
(そろそろパリに戻らないと)
鈴木はアメリカ大使館のLEGAT東京で報告書を書き始めていた。
心残りは菜月である。折角出会えたのに、このまま縁が切れるのは残念だった。
だからといって適当な理由をつけて東京に留まったとしても、あと一週間が限界だろう。
受信音が鳴ってメイルが届いた。
サンフランシスコのFBIからの報告だった。
残念ながらこれはという情報はなかった。
神父は典型的な聖職者で、ほとんど毎日教会の仕事を繰り返す人生を送っていた。普段と違うことと言えば、今回日本に来ることを志願したことぐらいである。
ただ、若い神父が、八月の終わりごろに驚くほど真剣な顔をして新聞を読み入っていた神父を見たことを覚えていた。そんな神父はそれが最初で最後だったという。
神父が日本行きを志願したのはその直後だった。
恐らく読んでいたのはSan Francisco Chronicle(サン フランシスコ クロニクル)という新聞だったと思われ、八月二十日から三十一日までの間であったことには間違いがない。自分たちも検討するがそちらでもお願いしますと、デジタル版へのアクセスコードが添えられていた。
アメリカの新聞はページ数が多い。日曜日の新聞ともなれば四十ページ以上もある。特に、Classified Ad(クラシファイド アドゥ)と呼ばれる広告欄の一つ一つまでも検討するとなれば途方に暮れる作業である。
しかし、すべてに目を通すしかあるまい。
鈴木は腰を据えてコンピュータに向かった。
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「それでどこまで終わったの?」
「八月二十九日」
「じゃあ、もうすぐじゃない」
「かなり限界ですけどね」
鈴木の笑顔が微かに引きつっていた。
二人は神楽坂の日本料理屋のカウンターに座っていた。
二日間籠もって新聞に印刷された項目を隅から隅まで検討した。
これ以上は体によくないと悟って菜月にメイルを入れた。夕食の誘いを快諾してくれたことが思った以上に救いになった。
神楽坂は粋な町である。
表通りから一歩路地裏に入ると、縦横に走る小路に数えきれないほどの店が並んでいる。知る人ぞ知る名店も多く、文字通りの隠れ家である。
夜は外堀通りから早稲田通りに向かって一方通行になる。JR飯田橋駅西口で待ち合わせた二人は、駅前の信号を渡り、賑わう坂道を車の流れに沿ってゆっくりと歩いた。古い建物が並んでいるわけでもなく、店も近代的なものが多いのだが、江戸情緒と言われても納得できる街並みが、独特の雰囲気を醸し出していた。
坂を上がり切ったところで右の路地に折れる。左手の雑居ビルの四階に目的の日本料理屋があった。
知らなければ必ず迷いそうな場所である。
菜月に連れてきて貰った店だが、入るなり気に入った。
パリの小さなレストランにも落ち着く店はたくさんあるが、カウンターに十席程度の日本料理の店がこれほど心地よい場所であるとは知らなかった。ミシュランの星を取っているだけのことはある。
御凌(おしのぎ)を食べながら、鈴木はLEGAT東京への転属願を出してみようと真剣に考え始めていた。
日系だし、認められるかもしれない。
サンフランシスコにも近い。
菜月もいる。
改めて菜月を見た。
横顔も可愛かった。
菜月が食べている姿を見るだけで心地よい自分がいる。
「それで、何か見つかったの?」
菜月の声に我に返った鈴木は菜月の言葉を反芻した。
(何か見つかったの?)
「いや、あんまり」
「何も?」
「強いて話題性のあるものは、ナチスの金塊列車の話ぐらいかな……」
「なにそれ?」
「知らない?」
「知らない」
ナチスの金塊列車とは、大量の金塊を積んだまま七十年前に消えたとされるナチスドイツの列車のことである。
八月の終わりに二人のトレジャーハンターがポーランドのヴァウブジフ市の廃墟となったトンネル内に列車を発見したと発表した。一兆円以上の価値がある金塊が積まれているとされているが、この地方はナチスの金塊列車があるとの噂が絶えなかった場所でもある。
トレジャーハンターはポーランド政府に十パーセントの報奨金を要求しているが、政府関係の調査隊はトンネルの存在は認めても列車の存在は認めておらず、未だに決着が付いていない。
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