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神戸から聞こえた悲鳴
「そこら辺から火の手があがって、私の家は全焼してしもうた。息子が一人、もう死んでると思うね。出されんかったですわ。38歳です。もう焼けたから死んだと思いますわ。もうちょっとね。足が出てるんだけど、あとが出なかった。足を引っ張って出そうとしたんだけれど、そのうち火が来て『親父、逃げてくれ』って。そのままで。目の前で見殺しですわ」
目を、耳をふさぎたくなるような光景ですが、これが阪神・淡路大震災の現実でした。ずいぶん昔のこと、遠いところで起こったこととして、「我がこと」とは思えないという人も多いでしょう。しかし、この音声の記録からでも、消防力不足や医師不足など、今も変わっていない、いや、むしろ今の方が深刻かもしれない課題が浮かび上がってきます。
さらに、その根底には、家屋を耐震化していなかったことの無念さが伝わってきます。当時の悲劇を繰り返さないために、私自身の苦い経験も交えて、あらためて「見たくないもの」を見てみましょう。
死者の8割、家の下敷き
阪神・淡路大震災が発生した1995年1月は、大学入試センター試験が14、15日にあり、翌16日は成人の日の振り替え休日でした。そして休み明けの火曜日となった17日の午前5時46分。ほとんどの人は家で寝ている時間帯でした。
ゴゴゴ……という地鳴りと共に、地面から振動が。そのとたん、縦へ横へとすさまじい揺れが襲ってきました。早朝にコンビニの中にいた人たちが、棚や商品もろともかき混ぜられるように振り回され、机にしがみついても立っていられなくなった映像が残っています。
NHK神戸放送局でも、棚が倒れて書類がすべて吹き飛び、机やテレビが部屋中を滑り回っていました。当直の職員は何とか無事で、神戸海洋気象台に電話して「震度6」の地震だと聞きました。「震度7」は1948年の福井地震の後に設定されましたが、建物の全壊率などを調査してから決めるものだったので、すぐには判定できませんでした。
NHKは神戸から大阪経由で東京に「震度6」を伝え、朝6時のニュースで一報を流しましたが、システムのトラブルで神戸海洋気象台からの情報が届いておらず、気象庁の本庁では確認できていないとしていったん取り消され、しばらくは神戸だけ「震度の情報なし」という状況が続きました。それぐらい混乱していたのです。
被害が近年まれに見る規模だということは誰の目にも明らかでした。近代的な神戸の街のあちこちから煙が上がり、無数の家屋やビル、そして高速道路が倒壊していました。
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