第九章 エピローグ
「灰江田さん。スーツを買っておいたのはいいんですが、ネクタイの締め方が分かりません」
横浜にあるレトロゲーム喫茶ドットイートで、コーギーが泣きついてきた。
「おいおい、おまえ社会人だろう。それぐらい覚えておけよ」
「無理ですよ。僕がスーツを着る機会なんて、社会人になって一度もないですよ」
そうかもしれないと灰江田は思う。仕事では皆無。機会があったとしても冠婚葬祭ぐらいか。しかし、友人がいる気配のないコーギーは、結婚式に呼ばれることもないだろう。仕方がない。灰江田は、コーギーのネクタイを締めてやった。
店にはいつものごとく、四十代、五十代の常連客が多い。今日は店内が、風船で飾りつけられている。友情崩壊ゲームとして有名な、バルーンファイトのトーナメント大会が開かれるからだ。店内には、猪鹿蝶をはじめとして、多くの客がいた。灰江田は、ちらりと店の端を見る。無事就職が決まった酒見も、ちょくちょく店に通うようになっていた。
「コーギーくん。まるで七五三みたいね」
カウンターの奥のナナが、面白そうに指を差す。ナナは考えたことをすぐ口にする。言ってやるなと灰江田は心の中でつぶやく。背が低くて童顔だから、そう見えるのは分かる。しかし、さすがに二十二歳の男に、それを言うのはかわいそうだ。俺も、ぐっとこらえているんだよと、拳を握る。
「そんなに幼く見えますかね」
コーギーは尻尾でも振りそうな様子で、自分の姿をあれこれと確認している。これは七五三というよりは犬系ショタだな。灰江田はコーギーを見て、密かにそう思う。
「そろそろ行くぞ」
灰江田は、コーギーに声をかける。
「ご祝儀袋、ちゃんと持ったの」
ナナが灰江田に話してくる。
「持ったよ。俺とコーギーの分。こいつは、こういう冠婚葬祭には疎いからな。準備は俺が全部してやった」
「おーおー、奥さんみたいだね」
冷やかすようにナナが言う。
「仕方がねえだろう。こいつまるで知らねえんだから」
灰江田は、コーギーとともに扉に向かおうとする。するとナナが二人を手招きして、カップを二つ差し出した。
「ご苦労さん。私からのおごりよ」
「珍しいな。雹(ひょう)でも降るのか」
「仕事をまとめただけじゃあ、おごらないけどね。父親を結婚式に呼ぼうとしていた女性を助けたでしょう。同じ女性として、お礼ぐらいはしたくなるわよ」
「そんなもんか」
灰江田は、コーヒーを手早く飲む。コーギーは、ゆっくりと飲もうとしたので、灰江田は急かした。
「それじゃあ行ってくる」
「店を早めに閉めて、二次会には参加する予定だから。結婚式の様子、あとで聞かせてね」
「分かったよ。赤瀬さんが、どんな顔で出席していたか、きっちりと報告してやる」
ナナは笑顔を見せる。灰江田は、手をひらひらと振り、コーギーを連れてドットイートをあとにした。
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