目覚めると、日は高く昇っていた。
——しまった。寝過ごしたか。
半身を起こしかけたが、考えてみれば、とくに急ぐこともない。
傍らには空の瓢が転がっている。そういえば昨夜、一人で寝酒したのを思い出した。ため息をつくと酒臭い。よほど飲んだ時でないと、翌朝まで臭いが残ることはない。
立ち上がろうとした嘉右衛門だったが、足がふらつく。慌てて柱に手を掛けて転倒を防いだが、足腰が衰えているのは明らかだ。
——なんてざまだ。
覚束ない足取りで裏の井戸まで行った嘉右衛門は、裸になると頭から水を浴びた。
同居している梅は、もう仕事に行ってしまったらしい。部屋をのぞくと布団が上げてあった。
——なぜ起こしてくれない。
そう思いながら、傍らに畳まれている着替えの上に置かれた書置きを見ると、「いくら起こしても起きないので、先に行きます」と書かれていた。
膳の上には雑穀米と干物の朝餉が置かれていたが、手を付ける気にはならない。
嘉右衛門は大あくびをすると、仕事に行く支度に掛かった。
重い足を引きずりながら作事場に赴くと、皆、すでに仕事を始めていた。日は高くなり、巳の下刻(午前十時頃)を回っているのは明らかだ。
嘉右衛門の姿を認めると、大工たちは口々に挨拶の言葉を述べるが、そのどれもがよそよそしい。
——いや、そう聞こえるだけだ。何も変わっちゃいない。
そう思おうとするが、擦れ違う誰もが気まずそうに視線を外し、そそくさと行ってしまう。かつてのように畏敬の念を持って、嘉右衛門の顔色をうかがう者はいない。
——わいは、もういてもいなくても同じ存在なんだ。
作事場に来る度に、その度合いが高まっているように感じられる。それはかつて、父の儀助が感じていたものと同じはずだ。
入口付近で皆の仕事ぶりを見るでもなく見ていると、「おとっつぁん」という声が掛かった。
振り向くと梅がいた。その背後には、大坂から来たひよりという少女が何かを持って立っている。
「何でえ」
「おとっつぁん、今朝は食べてきたの」
何も答えないでいると、梅は「食べていないんでしょう」と決めつけてきた。
「うるせえな。わいに構うな」
「おとっつぁん、何か口に入れなきゃ駄目だよ」と言うと、梅がひよりを促す。
「これを」と言いつつ、ひよりが何かを載せた笊を嘉右衛門の前に差し出した。笊の上の布巾を取ると、二つの握り飯に沢庵が添えられている。
嘉右衛門は、ようやく腹が減ってきていることに気づいた。
黙って握り飯を手にした嘉右衛門は、それを口にした。口の中に懐かしい味が広がる。
昨夜の食事も抜いたので、舌が喜んでいるのだろう。
「おとっつぁん、こんな暮らしを続けていたら、すぐに死んじまうよ」
「余計なお世話だ」
梅に背を向けると、そこに腰を下ろした嘉右衛門は、半分ほど食べた握り飯を笊の上に戻した。悪寒に襲われ、瞬く間に食欲をなくしたのだ。
「おとっつぁん、こんなことじゃいけないよ。みんなは、おとっつぁんが立ち直るのを待っているんだよ」
「立ち直るだと」
「そうだよ。市蔵さんが亡くなり、兄さんは出ていった。寂しいのは、おとっつぁんだけじゃないんだよ。だけど、おとっつぁんはいつまでも——」
「そんなんじゃねえ!」
嘉右衛門の心の中では、市蔵の死と弥八郎の不在は整理がついていた。だが、それによって明らかになった己の存在意義の薄さに戸惑っているのだ。
——それを梅に言っても仕方がない。
嘉右衛門は酒臭いため息をつくと、両膝の間に顔を埋めた。
「もう、ここにわいの居場所はねえんだ」
つい口をついて言葉が出た。
嘉右衛門の作事場では、磯平を中心にした新たな体制が回り始めており、嘉右衛門がいなくても、仕事に支障は来さない。
「おとっつぁん、それは違うよ。みんなは、おとっつぁんがいないから、仕方なく磯平さんを中心に頑張っているんだ。どんな家だって大黒柱があるから倒れないんだよ」
梅が嘉右衛門の肩を摑んで揺する。これまでなら「うるせえ!」と言って手を払ったはずだが、なぜか嘉右衛門は、そんな気にならない。
「わいがこのまま死ねば、弥八郎は戻ってくる」
「何を言うの!」
「わいの仕事は終わったんだ」
「それは違うよ!」
梅が嗚咽を漏らす。
「梅、誰も時の流れには逆らえねえ。それに抗うことほど、みっともないことはねえ」
嘉右衛門は立ち上がり、浜に向かった。無性に一人になりたかった。
背後からは、梅の嗚咽と「梅さん、しっかり」というひよりの声が聞こえる。
空は青く澄みわたり、海鳥がのんびりと舞っていた。
——昔から何も変わりゃしねえ。変わっていくのは人だけだ。
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