延宝二年の初夏、弥八郎は河村屋七兵衛に連れられ、佐渡島に向かっていた。
——波が瀬戸の海とは違う。
北海のうねりは、瀬戸内海よりも桁違いに大きい上に波長が長い。しかも青く澄んだ瀬戸内海とは異なり、濃藍色で底知れない深さがあるような気がする。
盛り上がっては消えていく巨大なうねりの山々を見つめながら、弥八郎は故郷から随分と離れたところに来てしまったという感慨を抱いていた。
——皆、変わりないか。
父の嘉右衛門や妹の梅はもちろん、牛島の人々の顔が浮かんでは消えていく。
——わいは、これから知り合う人たちとうまくやっていけるのか。
佐渡島では、全く見ず知らずの人々に囲まれて暮らしていかねばならない。大坂の時のように、冷たく扱われることも考えられる。だが弥八郎は、ただそこで暮らすだけではなく、皆を巻き込んで千石船を造らねばならないのだ。
それは叶わぬ夢のような気がする。
——だが、ここで踏ん張らなかったら、千石船は永遠に造れなくなる。
弥八郎は佐渡島に着いたら、不退転の覚悟で千石船に挑むつもりでいた。
——それにしても、気分が悪いな。
舳に波が当たる度に船が上下に大きく揺れる。それだけなら何とか堪えられるが、舷側にも大波が当たるので、横揺れも伴う。その不規則さに、海に慣れた弥八郎でも耐えられなくなってきた。
——塩飽の船子たちは、こんな海にまで来ていたんだな。
彼らから北海の厳しさは小耳に挟んでいた。だが彼らには、物事を大袈裟に語るのを恥じる文化があり、ここまで凄まじいものだとは決して言わなかった。
腹底から、波のように悪寒がわき上がってくる。
遂に耐えきれなくなり、弥八郎は舷側から顔を出して胃の中のものを吐いた。
眼下の海は、そんな弥八郎をあざ笑うかのように波の先を伸ばしてくる。
「どうした」
背後で七兵衛の声がしたので、口元を袖で拭きながら弥八郎は振り向いた。
「何でもありません。ただ舷側に当たる波が、どれほど強いか確かめていたんです」
「物は言いようだな」
七兵衛の高笑いが、風波の音にかき消される。
「何事もそうだが、慣れれば何ともなくなる」
「へ、へい」
「今は四月だ。一年のうちで最もましな方だ」
「これで、ですか」
「ああ、そうだよ」
——これよりも荒れた海に大船を浮かべるのか。
弥八郎は自信がなくなってきた。
「ほら、見えてきたぞ。あそこで、お前さんは船を造るんだ」
ようやく佐渡島らしき陸地が見えてきた。
新潟港から佐渡島までは十里(約四十キロメートル)余の距離があるが、順風に恵まれたためか、日の出とともに出た船は、日の入り前に小木港に着くことができた。
小木は北海交易の一翼を担っている港だけあり、旅籠や居酒屋などが軒を並べていた。中には女郎屋とおぼしきものまである。
港を行き交う人も多く、蔵の中に何かを運び込んだり、運び出したりする人足の姿も見える。
——肚を据えて掛かるしかない。
弥八郎の心中には、開き直りに近い覚悟が芽生えつつあった。
佐渡島の最南端に近い小木港から一里(約四キロメートル)ほど西に行くと、宿根木という名の船造りの町がある。そこが千石船造りの拠点になるという。
小木港から海岸沿いに曲がりくねった道を行くと、半刻も経たずに宿根木に着いた。
宿根木の集落は背丈の倍ほどもある風垣(防風柵)に囲われ、外からは見えない。七兵衛によると、冬の強風が叩きつけるように吹く上、砂が入り込んでくるので、無数の竹を編んで風垣にしているという。
その中心付近にある戸をくぐると、幅が一間(約一・八メートル)もない路地が四通八達していた。その路地沿いに、無数の小さな家屋が身を寄せ合うようにして立っている。
それぞれの家は総二階建ての縦板張りで、船の廃材が再利用されているものもある。どの家の外壁も傷んでおり、この地の塩害は瀬戸内海の比ではなさそうだ。
蔵のような白壁造りの建物もあるが、多くは外壁全体に杉板をめぐらせた「覆屋」となっている。七兵衛によると、これらは「サヤ」と呼ばれ、強風や塩害で外壁が破損することを防いでいるという。
風の強さは屋根にも表れており、すべての家の屋根は、強風に強い「石置き木羽葺き屋根」となっている。
これらのことから、この島の人々が、瀬戸内海とは比べものにならないほど過酷な環境で暮らしていることを知った。
狭い路地を何度も曲がって海に近い一角に着くと、「船大工 清九郎」と書かれた木製の看板が見えてきた。その前で、ようやく七兵衛は立ち止まった。
「ここだ。少し待ってろ」と言うと、七兵衛は遠慮なく中に入っていく。
中で働いていた大工たちが一斉に手を休めると、口々に七兵衛に挨拶する。
「清九郎さんはいるかい」
七兵衛が声を掛けると、奥から男が一人やってきた。
「お待たせしました」
「おう、清九郎さん、久しぶりだな」
その三十代後半の男は、大坂の伊三郎のように七兵衛に媚びを売ろうとしない。あくまで無愛想に腰を少し曲げただけだった。
清九郎は小柄で肩幅がある。その眼光は鋭く、はっきりした顎骨の線が、この男の意志の強さを表していた。
七兵衛と清九郎は、作事場の奥に入って何やら話し合っている。その手振り身振りから、船の話なのは間違いない。
弥八郎が入口付近で手持ち無沙汰にしていると、背後から声が掛かった。
「あんたも、ここで働くのかい」
振り向くと長身痩軀の少年が立っていた。その顔は潮焼けしており、白い歯がやけに眩しい。
「おそらくな。わいの名は弥八郎だ。瀬戸内海の塩飽から来た」