延宝二年(一六七四)の正月が明けて二月になった。五左衛門は所用で嘉右衛門の作事場に足を向けた。
牛島には東と西に山があり、その間に平地や湿原が開けている。二つの山々は東西の海岸線まで張り出しているため、海沿いの村は北の里浦と南の小浦にしかない。そのため多くの人々は内陸部に住んでいる。道も島の中央を南北を貫くように一本走り、それが海に突き当たったところで、少し東西に走っているだけだ。
五左衛門は痛みが引きにくくなった膝をさすりながら、小浦への道を歩んでいた。
——これほどの間、作事場に行かなかったことなど、今まであったかな。
五左衛門が作事場に出向くのは、三月ぶりになる。
丸尾屋は廻船業と造船業を事業の二本柱にしている。その一方を担う嘉右衛門とは、これまで密に連携してきた。それが最近、疎隔になってきている。
——千石船を造ることを拒絶してから、嘉右衛門はわいを避けている。
それでも仕事がある限り、いつまでも気まずい関係でいるわけにもいかない。
ところが作事場に着くと、嘉右衛門はいないという。どこに行ったか問うても、皆、首をひねるばかりだ。
作事場の前に出て「さて、どうするか」と左右を見回していると、背後から声が掛かった。
「あの——」
振り向くと少女が立っていた。
「ああ、弥八郎の——」
「いえ、そんなんじゃないんです」
少女が恥ずかしげに俯く。
「そうだったな。梅ちゃんから聞いている。確か名は——」
「ひより、といいます」
「ああ、そうだ。どうだい、こっちの暮らしは慣れたかい」
「おかげさまで。皆さんご親切なので——」
「そいつはよかった。この世は何事も人の縁だ。あんたは、この島に縁があったんだ」
「は、はい」
春の日差しを受けて、ひよりは恥ずかしげな笑みを浮かべていた。
——弥八郎もたいしたものだ。
梅から聞いた話だが、弥八郎はひよりの境遇に同情し、全財産を渡して牛島に来るよう取り計らったという。
一方のひよりも、金だけもらってとんずらするようなことをせず、素直に弥八郎の言に従い、ここに来た。しかも余った金を梅に返したというのだから恐れ入る。
だが多忙な五左衛門は、ここでずっと世間話をしているわけにもいかない。
「それで、何か用かい」
「はい。頭ですが、朝方こちらにいらして磯平さんたちとお話しされた後、丘の方に行きました」
「嘉右衛門が丘に——。いったい何の用だい」
「今日は、お亡くなりになられた方の月命日とかで、話をしている間に、花を摘んでおくように言いつけられました」
「ああ、そうだったな」
今日が市蔵の月命日なのを、五左衛門は思い出した。
ひよりと別れた五左衛門は一人、墓所への道を上り始めた。だが少し行くだけで息が切れてきた。最近は上り坂などを歩くと、息が切れるし膝も痛くなる。それでも無理していると、胸の動悸が激しくなってきた。立ち止まって脈を診たが不規則で弱々しい。
——わいの体も、ガタが来ているのか。
五十となった五左衛門は体力の衰えを感じていた。
それでも五左衛門は一人、墓所への坂道を上った。というのも一本道なので、途次に下りてくる嘉右衛門と出会えるものと思っていたからだ。しかし、いつまで歩いても嘉右衛門とは出会えず、遂に墓所に着いてしまった。
「仕方ねえな」と思いつつ墓所に行ってみると、嘉右衛門が市蔵の墓の前で倒れていた。
「おい、どした!」
五左衛門は駆け寄ると、嘉右衛門を抱き起こした。
「しっかりしろ!」
その時、酒の臭いが鼻を突いた。見回すと、近くに貧乏徳利が転がっている。
——なんてこった。酔いつぶれていたのか。
「うう——」
五左衛門が安堵のため息を漏らすと、ようやく嘉右衛門が薄目を開けた。
「あっ、棟梁」
抱き起こしているのが五左衛門と知った嘉右衛門は、慌てて起き上がろうとする。
「少し酒が過ぎたようで、申し訳ありません」
嘉右衛門は、その場に正座して頭を下げた。
「昼間っから、こんなところで飲んでいたのか」
「面目ありません」
嘉右衛門が頭を垂れる。
「最近、酒が過ぎていると聞いたぞ」
五左衛門もその場に胡坐をかいたが、嘉右衛門は視線を合わせようともせず悄然としている。
「市蔵を失い、弥八郎にも出ていかれてしまったお前の気持ちは分かる。だがな——」
「そんなんじゃないんです」
嘉右衛門は即座に否定した。
「じゃ、どういうことだ」
「棟梁は、まだしっかりしていらっしゃる。だから棟梁には分からないことです」
——そんなことはない。
五左衛門も、ここのところ体調の悪い日が続いていた。
「まだ老け込む年じゃねえ。しっかりしろ!」
「へ、へい。しかし——」
嘉右衛門が弱々しく瞬きする。
——こいつは、何かから逃げたくて酒におぼれていたのか。
五左衛門にも、ようやく嘉右衛門の気持ちが分かってきた。
「お前は何に怯えている」
「何にも怯えていません。ただ——」
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