可愛い子には旅をさせるんだ」父と子 ー6

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「千石船」━━。 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーションの生みだす様々なジレンマを、船大工たちの視点で描いた長編時代小説です。 (火・木 10時更新)

延宝二年(一六七四)の正月が明けて二月になった。五左衛門は所用で嘉右衛門の作事場に足を向けた。

 牛島には東と西に山があり、その間に平地や湿原が開けている。二つの山々は東西の海岸線まで張り出しているため、海沿いの村は北の里浦と南の小浦にしかない。そのため多くの人々は内陸部に住んでいる。道も島の中央を南北を貫くように一本走り、それが海に突き当たったところで、少し東西に走っているだけだ。

 五左衛門は痛みが引きにくくなった膝をさすりながら、小浦への道を歩んでいた。

 —これほどの間、作事場に行かなかったことなど、今まであったかな。

 五左衛門が作事場に出向くのは、つきぶりになる。

 丸尾屋は廻船業と造船業を事業の二本柱にしている。その一方を担う嘉右衛門とは、これまで密に連携してきた。それが最近、かくになってきている。

 —千石船を造ることを拒絶してから、嘉右衛門はわいを避けている。

 それでも仕事がある限り、いつまでも気まずい関係でいるわけにもいかない。

 ところが作事場に着くと、嘉右衛門はいないという。どこに行ったか問うても、皆、首をひねるばかりだ。

 作事場の前に出て「さて、どうするか」と左右を見回していると、背後から声が掛かった。

「あの—」

 振り向くと少女が立っていた。

「ああ、弥八郎の—」

「いえ、そんなんじゃないんです」

 少女が恥ずかしげに俯く。

「そうだったな。梅ちゃんから聞いている。確か名は—」

「ひより、といいます」

「ああ、そうだ。どうだい、こっちの暮らしは慣れたかい」

「おかげさまで。皆さんご親切なので—」

「そいつはよかった。この世は何事も人の縁だ。あんたは、この島に縁があったんだ」

「は、はい」

 春の日差しを受けて、ひよりは恥ずかしげな笑みを浮かべていた。

 —弥八郎もたいしたものだ。

 梅から聞いた話だが、弥八郎はひよりの境遇に同情し、全財産を渡して牛島に来るよう取り計らったという。

 一方のひよりも、金だけもらってとんずらするようなことをせず、素直に弥八郎の言に従い、ここに来た。しかも余った金を梅に返したというのだから恐れ入る。

 だが多忙な五左衛門は、ここでずっと世間話をしているわけにもいかない。

「それで、何か用かい」

「はい。頭ですが、朝方こちらにいらして磯平さんたちとお話しされた後、丘の方に行きました」

「嘉右衛門が丘に—。いったい何の用だい」

「今日は、お亡くなりになられた方の月命日とかで、話をしている間に、花を摘んでおくように言いつけられました」

「ああ、そうだったな」

 今日が市蔵の月命日なのを、五左衛門は思い出した。

 ひよりと別れた五左衛門は一人、墓所への道を上り始めた。だが少し行くだけで息が切れてきた。最近は上り坂などを歩くと、息が切れるし膝も痛くなる。それでも無理していると、胸の動悸が激しくなってきた。立ち止まって脈を診たが不規則で弱々しい。

 —わいの体も、ガタが来ているのか。

 五十となった五左衛門は体力の衰えを感じていた。

 それでも五左衛門は一人、墓所への坂道を上った。というのも一本道なので、途次に下りてくる嘉右衛門と出会えるものと思っていたからだ。しかし、いつまで歩いても嘉右衛門とは出会えず、遂に墓所に着いてしまった。

「仕方ねえな」と思いつつ墓所に行ってみると、嘉右衛門が市蔵の墓の前で倒れていた。

「おい、どした!」

 五左衛門は駆け寄ると、嘉右衛門を抱き起こした。

「しっかりしろ!」

 その時、酒のにおいが鼻を突いた。見回すと、近くに貧乏徳利が転がっている。

 —なんてこった。酔いつぶれていたのか。

「うう—」

 五左衛門が安堵のため息を漏らすと、ようやく嘉右衛門が薄目を開けた。

「あっ、棟梁」

 抱き起こしているのが五左衛門と知った嘉右衛門は、慌てて起き上がろうとする。

「少し酒が過ぎたようで、申し訳ありません」

 嘉右衛門は、その場に正座して頭を下げた。

「昼間っから、こんなところで飲んでいたのか」

「面目ありません」

 嘉右衛門がこうべを垂れる。

「最近、酒が過ぎていると聞いたぞ」

 五左衛門もその場に胡坐あぐらをかいたが、嘉右衛門は視線を合わせようともせず悄然としている。

「市蔵を失い、弥八郎にも出ていかれてしまったお前の気持ちは分かる。だがな—」

「そんなんじゃないんです」

 嘉右衛門は即座に否定した。

「じゃ、どういうことだ」

「棟梁は、まだしっかりしていらっしゃる。だから棟梁には分からないことです」

 —そんなことはない。

 五左衛門も、ここのところ体調の悪い日が続いていた。

「まだ老け込む年じゃねえ。しっかりしろ!」

「へ、へい。しかし—」

 嘉右衛門が弱々しくまばたきする。

 —こいつは、何かから逃げたくて酒におぼれていたのか。

 五左衛門にも、ようやく嘉右衛門の気持ちが分かってきた。

「お前は何におびえている」

「何にも怯えていません。ただ—」

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男たちの船出

伊東潤

「俺はまだ終わっちゃいねえ!」 江戸時代初期、江戸の町に食糧危機が迫っていた。必要なのは物流革命の切り札「船」 息子も居場所も仕事の誇りもすべてを失い、老いにどん底まで追い詰められた男が逆襲する! 『男たちの船出』は、イノベーシ...もっと読む

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